サンデー毎日連載コラム「校閲至極」が本になりましたが、複数の筆者の違いなどから文末が「だ・である」体と「です・ます」体が混在しています。筆者の個性と言ってしまえば簡単ですが、どちらが読者に響く文体なのでしょう。
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文末の不統一は小学生も大人も
小学4年生の娘が夏休みの宿題の読書感想文をようやく書き上げたので読んでみたら、最初「行く」「思った」などの文末だったのが、最後の方では「思います」「いきます」と変わっていました。
思えば、私も小4か小5くらいの頃から作文で文末を基本的に「です」「ます」から「だ」「である」に変えたような気がします。ちょっと背伸びしたような気分になった記憶が何となくあります。娘も書き始めた時はそうだったのかもしれませんが、背伸びの姿勢がいつの間にか保てなくなったということでしょうか。提出前に直させましたが、どこがいけないのか分からないふうでした。
大人の投稿などでも、このような乱れは時々見られます。ただし、いうまでもないかもしれませんが、統一するのは一人の筆者の中でばらばらの場合です。投書欄では、筆者が違えば「です・ます」体と「だ・である」体が混在するのが常です。一つの投稿の中で文体が意味もなく変わる場合のみ、校閲としては指摘しています。
校閲コラムで「です・ます」を使ってみた
新聞では、ニュース記事はもちろん、記者が前面に出るコラムでも「です・ます」体はまれです。毎日新聞では1面に「余録」、夕刊社会面に「憂楽帳」という毎日載るコラムがありますが、すべて「だ・である」体です。
ただし、私は校閲記者としてのコラムで「です・ます」体で書いてきました。私が初めて毎日新聞に書いたのは30年前の「校閲部午前3時」という署名入りコラム。1度だけ重いテーマだからと「だ」「である」で書いてみたのですが、どうも押しつけがましいというか、気弱な私の性格(どこが?と思う知人もいるかもしれませんが)に合わない気がして、それ以降、校閲関係のコラムでは「です」「ます」で通しています。
さて、サンデー毎日連載コラム「校閲至極」がこのほど書籍化されましたが、本を手に取った方は、文末の表記が不統一ということにすぐ気がつかれたと思います。つまり「だ」「である」という常体と、「です」「ます」の敬体の混在です。
このコラム集は21人の筆者によって編まれています。敬体と常体で分けてみると
常体の筆者…14人
敬体の筆者…5人
常体から敬体へ変えた筆者…2人
という内訳になります。サンデー連載時はともかくとして、書籍化の際に文末を統一しなくていいかという話もしましたが、出版担当者も「筆者それぞれの個性だから」とそのままにしました。
「だ・である」の力強さ
「だ・である」体の一例として次の文章を読んでください。新聞、放送などの用語担当者の会議で議論されたジェンダー表現についての文章です。
男女対になる言葉がない語は使用を避けるという社もあるが、委員の大半は中年男性だ。「過敏ではないか」という見方もあれば、問題のある語を言い換えるのも、平等を意識してというより「波風を立てないように」という空気感も感じないではない。
ジェンダーに限らず、差別などに関する語は、そうした「気にする人がいるかどうか」で使用の是非を判断されがちだが、真に大事なのはそこではない。メディアが特定の価値観に基づいた表現を使うことにより、人々にそうした価値観を知らず知らずのうちにすり込んでしまうのが問題なのだ。(「校閲至極」133~134㌻)
私は中年男性の元委員の一人として胸を突かれました。これを「です・ます」体に頭の中で直して読み直してみてください。「だ・である」体と比較して、例えば「真に大事なのはそこではありません」という文体と、どちらが読者のあなたに響くでしょうか。
ここで優劣を述べるつもりはありません。実際のところ、内容がしっかりしていればどちらでも伝わるでしょう。
「です・ます」は読者への語りかけ
では最初は常体だったのに、3本書いた後に敬体に変えた筆者に聞いてみましょう。「この分量なら『です・ます』の方がはまる」ということから変更したそうです。
たしかに「だ」より「です」などの方が字数は稼げますが、それだけではないように思います。このような誤字があった、という「報告」から、読者への「語りかけ」へと筆者の意識が微妙に変わったように感じられるのです。
「日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?」(平尾昌宏著、晶文社)は、哲学の立場から文末の選択が世界観の違いに通じることを論じた本です。それによると
〈です・ます体〉が現出する世界は開かれたもの
〈です・ます体〉においては読者と著者との、いわば対話的な関係が既にして織り込まれている
といいます。そういえば、先に引用したコラムの文章は対話というよりは演説に近いものがあり、その力強さには「だ・である」体がふさわしいといえるかもしれません。
ただ、私自身の書き方でいえば、文章を頭の中で考えるときは「だ・である」体で考えて、それを文字にするときに「です・ます」体に直しています。「だ・である」の論理をいったん解体して、誰かに話しかける文として組み直しているのです。それが読者にどれだけ届いているか分かりませんが、私の文はともかく「校閲至極」の各筆者の文体の違いを読み比べて、内容にふさわしいのはどの文体か考えていただければ幸いです。
【岩佐義樹】