市川沙央さんが芥川賞受賞記者会見で語った「我に天佑あり」は、阿川弘之さんの「雲の墓標」が元であることが分かりました。この小説を読むと、前から気になっていた朝ドラの「○○学生」という呼び方や、アニメ「Zガンダム」の「修正」とのつながりが目を引きました。
市川沙央さんが芥川賞受賞記者会見で語った「我に天ユウあり」について、元になった言葉が阿川弘之さんの「雲の墓標」(1956年)であることが分かりました。早速、新潮文庫の同書を購入して確認しました。
目次
特攻隊員を描く小説に「天佑アリ」
この小説は一特攻学徒兵の日記として書かれています。1945年4月6日の項に
「ワレニ天佑(テンユウ)アリ。敵艦ニ突入ス」
という風な電報がつぎつぎに入って来る。(中略)あのオンボロ艦攻や艦爆で奇襲に成功したとすれば、まったく天佑というほかないのだ。
とあります。別の部分でも「天佑を確信し全軍突撃せよ」とあります。
ということで「天祐」か「天佑」かという疑問は解消しました。ただ市川さんご本人は「どちらの字でもいい」と書いており、元が電報のためか、漢字にはこだわりがないようです。
「吉野学生」と「舞いあがれ!」
さて、これをきっかけに「雲の墓標」を読んでいると、これまで気になっていたテレビ番組の特殊な二つの言葉遣いとの関連に気づきました。
まず「吉野学生」という呼び方。
吉野というのは日記の筆者ですが、下士官教員が「吉野学生も、毛じらみば、わかしとるじゃろう」「どうした? 吉野学生」と呼びかけているのです。
ここで前期のNHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」を見ていた方なら、航空学校で吉川晃司さん演じる教官が「岩倉学生」「柏木学生」と呼んでいたことを思い出すのではないでしょうか。この呼び方は不思議あるいは新鮮に捉えられました。
もしかして、航空学校で「○○学生」と呼ぶのは海軍以来の伝統があるのでしょうか。
「雲の墓標」によると、海兵団の学生は教程を終えると「士官の服を着、少尉候補生に準ずる階級」を与えられたそうです。下士官の教官にとっては間もなく自分の上官になる人を呼び捨てにしないという慣例があったのかもしれません。
「修正」という暴力と「Zガンダム」
しかし、「意外に優しい?」という上官ばかりではないのはもちろんです。鉄拳制裁が日常として描かれています。
その場面で、何度か「修正」という言葉が出てきます。上官の殴打だけではなく、たとえば
向き合った同士で相互修正。八百長のなぐり方をしているのがみつかると、「こういう風になぐるのだ」と、ぶっ倒れるほど活を入れられる。
と、仲間同士で血が出るほど殴り合いをさせられます。それらの目を背けたくなるような暴力がさりげなく修正という文字で描かれます。「さりげなく」というのは、現代の感覚からすると「修正」とカギカッコでくくったり「修正と称して」などと書いたりするところと思うからですが、当時の予備学生の日記としてはそちらが日常の言葉遣いだったことがうかがえます。
さて、この「修正」という名の鉄拳制裁、アニメ「機動戦士Z(ゼータ)ガンダム」(1985~86年)でも描かれました。「修正してやる!」という主人公のセリフは一部で有名になりました。
ガンダムシリーズの総監督、富野由悠季さんはちょっと変わった言葉遣い(「ロボット」ではなく「モビルスーツ」という用語を作るなど)を好む人で、この「修正」もその類いかなと思っていました。実際に使われていたことが今になって分かりました。
「十七載」の出典は?
「天ユウ」という言葉を通して「雲の墓標」、そこから気になっていた言葉へと、時もジャンルも超え不意につながりました。これも読書の愉悦でしょう。今回は偶然気づいたのですが、これまで追求しなかったどれだけの言葉が、先行作品の暗号に満ちているのか、想像も付きません。せいぜい、市川さんの芥川賞受賞作「ハンチバック」で、「ミサトさん」という登場人物以外の名が唐突に出てきても「おっ、こんなことろに葛城3佐が」とにんまりする程度です。
「天ユウ」もそうでしたが、すぐ答えが出るよりも、謎のままにしていつか突然に回路がつながる方が刺激的です。
ところで、8月中に出る予定の毎日新聞校閲センターの本「校閲至極」(サンデー毎日連載コラムの書籍化)には、こういう謎の言葉があります。
「天運めぐる十七載」。辞書の用例として出ていて、出典が何か調べたけれど分からなかったとのことです。「天」つながりではありませんが、出版をきっかけに、いつか思いがけなくつながる縁があれば、それこそ天佑ではないでしょうか。
【岩佐義樹】