「試合会場では勝者と敗者、悲喜こもごもの姿が見られた」というような使われ方をされるようになって久しい。
「悲喜こもごも」は「悲しいこととうれしいことを、代わる代わる味わうこと」。「一人の人間が喜びと悲しみを味わうことで……『喜ぶ人と悲しむ人が入り乱れる』の意で使うのは誤り」(大辞泉2版)とされる。「悲喜=悲しみと喜び」と「こもごも=かわるがわる、次々に」をそれぞれの意味通りにつないで解釈し、前掲のような場面に当てはめて使うようになったのだろう。「悲喜こもごも至る」だったのが「至る(自分のほうにやってくる、到来することの意)」が省かれてしまったのも「誤り」が広がった一因かもしれない。ちなみに三省堂国語辞典(7版)は俗用としながら「悲しむ人とよろこぶ人がまざっているようす」と記している。
「悲喜こもごも」ではないが、先日それと似通った使い方をしている語に出合った。
ある政情不安定な国で、大統領職を狙っているとうわさのある閣僚の動向を伝えた記事に「国民の愛憎相半ばする同氏が大統領に就任した場合、国民の融和はより困難になるとみられる」とあった。同僚の若い校閲記者が言った。「愛憎相半ばするというのは、ふつう誰かに対する相反する感情が、ある一人の胸にあるときに使うものですよね」
いとしさが募りながらも、相手との曲折した関係ゆえに、憎しみの感情を消すことができない。一筋縄でいかない心裏、葛藤を表すのが「愛憎相半ばする」だろう。
記事を読むと、ここに出てくる閣僚に対する愛憎とは、国民個々の矛盾した胸の内を示すものではなさそうだ。「国民の融和が困難になる」と続くのだから、この閣僚への民衆の支持、不支持が大きく分かれているため、彼が大統領になれば、国民の反目がさらに激しくなるとの懸念を示したと解するのが妥当のようだ。この語が表す内心の波立つ状態とはそぐわない。新聞製作も切羽詰まったころ合いだったので、「国民の賛否が半ばする同氏が……」と表現を変えてもらってしのいだ。
「愛憎相半ばする」は一人の胸の内の相反する感情について使うと言ったが、手元の国語辞典を繰ってみても、詳しく書いてあるものには行きあたらない。たいてい「愛憎=愛することと憎むこと。(個人個人に対する)すききらい」(岩波国語辞典7版)、「相半ばする=相反する二つのものが半分ずつの状態を保つ。五分五分である」(明鏡国語辞典2版)と別々に見だしを立てて意味を示し、用例として「愛憎相半ばする」と載せるにとどまる。
くだんの記事は、「悲喜こもごも」の場合に似て、「愛憎」「相半ばする」のそれぞれの語義を結び「好き嫌い五分五分」。さらに一歩進めて「国民の支持、不支持の二分」の意を託して用いたのだろうか。
【軽部能彦】