フリー校閲者が主人公の川上未映子さんの小説「すべて真夜中の恋人たち」英訳版が全米批評家協会賞の最終候補になりました。校閲者の実感が文学の言葉に昇華され、すべての校閲者が読むべき本だと思います。
うれしいニュースです。校閲者が主人公の川上未映子さんの小説「すべて真夜中の恋人たち」英訳版が全米批評家協会賞の最終候補になりました。なんだ候補かと思わないでください。日本人が最終候補になるのは初めてだそうですから。
川上未映子氏 『すべて真夜中の恋人たち』(講談社文庫)「全米批評家協会賞」 最終候補作品ノミネートのお知らせ=PDF、講談社
目次
一文字一文字を「追いつめる」
主人公は出版社の校閲局からフリーの校閲者になった女性。最初のシーンで「そこに広げられたゲラの一文字一文字を追いつめるようにしてじっとみつめた」とあり、「追いつめる」という表現にまずうならされます。
別のシーンではこうあります。
目のまえの文字がばらばらと好き勝手に動き出して逃れるようにしてこぼれてゆき、わたしはそれをひとつひとつつまんで紙のうえにもどして整列させた。そのひとつひとつが意味するものを念入りに拾いあげて、ふるいにかけるみたいにして、いつものように、そのひとつひとつを疑っていった。
校閲の本質を文学の言葉として昇華させた文章ではないでしょうか。ちなみに円満字二郎さんの「漢字ときあかし辞典」によると、「閲」とは「部首『門』にも現れているように、本来は“門で一人一人を調べる”ことを表す」といいます。文字たちを並ばせて一つ一つ疑いの目で調べていくのが校閲なのです。
「間違いのない本はない」が
次に、知り合った男性に自分の仕事のことを伝えるシーンから主人公のせりふを引きましょう。
「間違いのない本っていうのは、ないんです」
「まるで、間違いの遺伝子みたいなのを残すために、もしかしたら本ってあるんじゃないのかなあって思うくらいに、本には間違いがあります」
「もちろん、これ以上はもう探せない、これ以上はもう無理だって思ったところで、手放すんですけど、でも、かならず間違いは、あるんです」
実際に、主人公は書店で自分が担当した本を何げなく手に取り誤植を見つけてしまいます。
あんなに何度も念入りに注意してチェックを重ねたのに、ぱっと開けばすぐに目に飛びこんでくるような場所の、誰がみてもはっきりと気づくような単純な誤植を見落としていたことに衝撃を受けて、けれども何度みてもそこには明確な誤字が載ってあり、わたしはひどく落ちこんでしまってぼうっとした気持ちのまま家まで歩いて帰った
私も先日、小学生にも見つけられるカタカナの並びの間違いを見逃して、同じ気持ちになりました。先に引用した「目のまえの文字がばらばらと好き勝手に動き出して」というのは秀逸な比喩ですが、文字が文字通り勝手に動き出すのを整列させるのが校閲なのに、と。
主人公の仕事仲間はこう言っています。
「誤植のない本はぜったいに存在しないって、経験上どれだけ頭ではわかっていても、それでもわたしたちは完全な本を目指さなけりゃいけないじゃない? 間違いのない、完全な本を。それは最初から負けることが決まっている戦いなのかもしれないけれど、でもやるしかないじゃない?」
負けが決まっている戦い。それなのにその登場人物は「自分の仕事に誇りをもってる」と言い切ります。なんと格好いい人でしょう。
すべての校閲者たちが読むべき本
校閲者を主人公にした最近の小説としては、辻原登さんの「隠し女小春」が昨年出版されました。これは男性で、仕事もでき、女性のストーカーに狙われるくらいですからイケメンなのでしょうが、私は格好よさを感じることはできませんでした。というより、仕事の場面も全くといっていいほどなく、校閲者が主人公である必然性が感じられません。
「すべて真夜中の恋人たち」も恋愛小説としての側面が大きいので、校閲の仕事そのものの描写は多くありません。しかし、以上引用した部分などを含め、すべての校閲者たちが読むべき本だと思います。
【岩佐義樹】