その辞書を「おっきい泉(せん)ちゃん」と呼んでいる。19年前に「大辞泉(だいじせん)」(小学館)の初版が刊行されてすぐ個人で購入した。自分の名が「泉」で、それを音読みにして「せんちゃん」のあだ名で呼ばれてきたものだから、親しみが湧いたのだ。仕事の上では複数の辞書に当たるものなので大辞泉だけに頼るわけではないが、「お、さすが大辞泉」と思ったことはある。
キノコの「かさ」は傘?笠?
例えばキノコの「かさ」。マツタケなどの軸の上にある部分を漢字ではどう書くか調べたことがある。原稿に「傘」と書かれていたが、毎日新聞の用語では「傘」なら漢字で書いてもよいが、「笠」は常用漢字表にないため「かさ」と仮名書きに直すのが原則だからだ。
国語辞書で「かさ」を引くと、笠の語釈(語意の説明)に「石灯籠(どうろう)・松茸(まつたけ)・ランプなどの上部をいう」と明記する「広辞苑」は珍しい方で、たいていは語釈の後の用例に見ることができる。別表のように「傘」派、「笠」派、「どちらにも決めない」派に分かれた。三省堂国語辞典は一つ前の第6版で「笠」の用例に「まつたけ」、傘の用例に「しいたけ」とそれぞれキノコが入っていたものが、第7版では「まつたけの笠」がなくなっていた。
「きのこ」を引くと、複数の辞書で語釈に「傘状」の記述があるが、形の説明をしているだけなのであの部分の書き方の根拠にはしづらい。「柄とかさがある」(三省堂国語辞典)のように仮名で書かれたものも多い。 そこで、大辞泉を開くと、「キノコ」のカラーの絵が目に入る。石突きや茎の上の部分を指し示して「傘」と書かれていた。語釈は「傘状をなし」などほかの辞書と同様だが、この絵で十分だ。
国語辞典を離れて職場の他の辞典類も見てみた。「調理用語辞典」(全国調理師養成施設協会)を引くと、ホンシメジ、シイタケなどどの項目を見ても「かさは直径○○センチ」と平仮名に統一されているようだった。「食材図典」(小学館)では、アミタケの説明「傘の裏側が網目状のキノコ」のように、傘が使われている。「生物学辞典」(岩波書店)も開いてみると「傘」の項目があり、「帽菌類の子実体上部の傘状の部分」という説明だ。
なにしろ傘と笠は「同語源」(大辞泉)というのだから、辞書によって分かれるのは無理もない。これだけ「傘」があるなら、少なくとも「傘」と書いて誤りとはいえないだろう。「笠」を採用する辞書も無視できず、どちらにも決めていない辞書もあることから仮名書きが無難ではある――こう考えることにした。
デジタルが“主”の「大辞泉」
実は、ここまでの大辞泉は第1版の話。第2版が2012年に出たが、上下2冊に分けられており、重さは半分になるがいちいち両方開くこともあって不便だ。カラーでなくなり、すべて横組みで文字がぎっしり。そして、肝心の図もなくなっていた――。付属されたDVDではカラーの図表や写真を見ることもできるが、パソコンに読み込まなければならない。なぜ、こんなことに?
大辞泉の板倉俊編集長によると、第2版は「驚くほど売れなかった」。それでも余裕がみられるのは、電子辞書やスマートフォンのアプリ、ウェブ辞書などとしての「デジタル大辞泉」が利益を上げているからだ。紙幅の制約というものがなく、年に3回も更新する。編集長にお会いしたのは4月の更新直前だったが、載せようとしていた「STAP細胞」をぎりぎりで引っ込めたというほど臨機応変だ。紙の辞書のためのデータというより、更新し続ける膨大なデジタル大辞泉のデータが「主」で、そこから紙の辞書(12年の第2版)もつくったという考え方だそうだ。語釈の文章をネットで募集したり、フェイスブックで時事用語の辞書的な解釈を発信したりと、さまざまな発想でこれまでの「辞書」の概念を超えていく。
結局、わたくしが今目の前に置いているのは大辞泉第1版の「増補・新装版」である。同じ第1版でも1995年のものは非常に重たかった。せっかく買ったのに家では引っ張り出すのがおっくうになるし、頻繁に使う職場では表紙がはがれてしまった。98年に出た増補・新装版は、新開発の用紙などにより、95年と比べてなんと1キロ減らしたそうだ。そんな努力があった大辞泉なのに、編集長は「少なくとも私が編集している間は紙の辞書はつくらない」と断言していた。1キロ減でももちろん電子辞書やスマホに比べればずっと重いが……。
でも、デジタル大辞泉で「笠」を検索して開いて語釈を見、次に「傘」を開いて語釈を見る――のでなく、紙の大辞泉の「かさ」あたりを開き、左右に並んだ「笠」と「傘」を見比べたい。その右に載っている「かさ【◎、毬】松やトチなどの実の殻」に気づいて「松かさは別なのね」と気づきたい(◎は木偏に求。媒体によってはこの字は表示できなかったり不格好な字になっていたりするけれど、紙の辞書ならはっきり見られる)。大辞泉を開いて「ほら」と職場の人にキノコの絵を見せて回りたい。わたくしには、どうしても手放せない。
【平山泉】