ある方が「野生のシャチ」という表現を使ったところ、「『野生』を辞書で調べると『動植物が自然に山野で生育すること』とあるので、海にいる生き物に対して使う言葉ではない。不適切な使用である」と指摘されたそうです。「山野」に海は含まれないというわけです。
そこで、その方はここ7、8年の間に出版されている14種類の辞書を調べてみました。すると、13種類の辞書では「山野で生育」というたぐいの説明がされており、2015年1月に出版された一番新しい辞書(三省堂現代新国語辞典第5版)のみ「動植物が自然の中で育つこと」と記述されていることが分かりました。しかし「たった一つの辞書に『自然』と書かれているからと言って、それを根拠に適切と認めていいものでしょうか」と重ねての指摘があったそうです。
毎日新聞では少なくとも私が記憶する限りはそのような指摘を受けたことはなく、特に意識せずに海のものでも陸のものでも動物でも植物でも、人の手が入らず自然状態で生息してきたものについて「野生」を使ってきました。「野生のイルカ」「野生のラッコ」「野生のトド」というような表現も紙面になっています。そのせいか、この方に「この指摘、どう思いますか」と相談されました。そこで考えてみた結果は以下のようなものです。
「野生」という語はかなり古くから使われていたようで、日本国語大辞典第2版を見ると1709年の大和本草の用例を載せていて、江戸時代から使われていた言葉であることが分かります。「野生」を古い辞書で引いてみますと、明治期には完成していた「私版言海」には「動植物ノ、山野ニ生長スルモノ」、1937年に刊行された「大言海」とほぼ同じ内容である「新編大言海」には「動植物ノ、自然ニ山野ニ生長スルコト」とあります。「言海」は日本初の近代的国語辞典とされていますから、後の辞書が説明の文章を考える際、この記述を参考にした可能性があります。
「言海」の説明で「山野」が何を表していたかというと、人里から離れた、ということを言いたかったのではないかと思います。人間と共生しているような状態ではない、ということを、当時の世界観の中で言い表したのが「山野ニ」なのではないでしょうか。その記述が現在まで踏襲されているのだとしたら、それほど「山野」の厳密な字義にとらわれなくてもいいように思います。
つぶさに調査したわけではありませんが、現在は海洋生物に「野生」を冠することは読者にも違和感なく受け取られていると思います。海の生き物はある種範囲外だった時代から科学的知見が広がり、海洋生物にも「野生」を使用できるよう変化したと考えることもできます。英語の「wildlife」に海洋生物が含まれているように、日本語の「野生生物」にも海の生き物が含まれていてよいのではないかと思います。
一番新しい辞書で「山野」が落ちているということは示唆的です。今後、現在の「野生」の使用実態が追認されて辞書の記述が「山野」を落とす方向で修正されていくかもしれません。
【松居秀記】