「なぜ新聞は『附属』でなく『付属』と書くのか」と題した文章をブログに載せたところ、固有名詞で「附属」としているものも「付属」とするのはどうしてなのか、固有名詞というものをどう考えているのか、というお便りをいただきました。
また時を同じくして、先日の夕刊で「村松友視さん」と表記したところ、村松さんの「視」は固有名詞なのだから「視」としなければならないのでは、というご指摘をいただきました。「固有名詞」について新聞はどう捉えているのか、と疑義を抱かれている方が少なくないということだと思います。難しいことですが、一応の回答を試みてみましょう。
目次
文字に求められる「公共性」
まず固有名詞は、あくまで固有の「名詞」であり、固有の「文字」ではありません。固有名詞の「固有性」は文字にあるのではなく、その呼び名にあります。文字には使う人々が共有する認識が必要で、ある種の公共性が求められます。文字については公共の規則に準拠し、固有名詞の固有たるゆえんの呼び名は尊重する、というのが基本的な立場です。
ですから、漢字の字体については「現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」とされる「常用漢字表」や、「一般の社会生活において、表外漢字を使用する場合の『字体選択のよりどころ』」である「表外漢字字体表」など、国で定めた規則におおむね準拠しています。
ご本人から強い希望を申し入れられたりするような特段の事情がなければ異体字は使用せず、原則の字体を用いて「黒澤明監督」は「黒沢明監督」としますし、出版社の「文藝春秋」は「文芸春秋」と表記します。村松友視さんについても、「視」と「視」は同じ字で、常用漢字に示されている字形は「視」ですから「村松友視さん」が原則になります。
使用実態に基づく例外
しかし、日本社会で文字が持つ意味はなかなか理論だけでは割り切れません。どうしても例外ができてしまいます。
学問的には同じ文字であるにもかかわらず、別字として認識されることが多いという文字もあります。「阪-坂」「埜-野」のようなものです。これらは数を限って使用しています。ちなみに「視-視」はその中には含まれておりません。
反対に、学問的には別の字ですが、社会での使用実態から同じ物とみなす、という文字、熟語があります。「附属-付属」はこちらに当たります。「満洲-満州」「塩竈-塩釜」などもこれです。
これら例外を全て認め出すと、極端な話、私の名前は必ずゴシック体で、とか、外国語人名は必ず現地の文字で、というのも固有性の一種になってしまいます。ここまでのことはないにしても、どこかでは線引きをしなくてはなりません。その線引きが現在の使用実態です。もちろんこれは不変のものではなく、社会の変化によって変わっていくものです。これからも時機をとらえて見直しは行っていくことになるでしょう。
「一つの字種に一つの字体」が望ましい
明治以来、日本語の表記は、漢字そのものの膨大な数と、その微細な字体の種類に悩まされ、コミュニケーションの壁になる場面がありました。それが教育に与える負担なども考慮し、使う漢字の範囲を限って表記するよう戦前から工夫を重ね、また字体についても整理を繰り返してきました。
常用漢字表の字体を尊重するのは、学校で習う漢字の字体がこの表に準拠していることも理由のひとつです。「附属-付属」のように一つの単語に二つの漢字表記があるというのは、文字の習得だけに時間と労力がかかり、教育には負担になります。
新聞のような多くの方の目に触れる公共性のある媒体が両方を採用すると、こうした負担を助長することになります。これは決して望ましいことではないと思います。いわゆる行政の公用文や新聞・出版のような実用的な文書においては、一つの字種に一つの字体が望ましく、何種類もの同じ字を使い分けたり覚えたりする煩雑さが事務作業上、意思疎通の妨げになることがありました。よく言われることですが「辺」の異体字は65種類あるそうです。これらを使い分けるエネルギーと利益とを勘案した結果、現在のような字体の整理が行われてきたわけです。
文字の存在そのものが意思疎通の妨げになるような事態を引き起こさず、漢字を使って日本語でスムーズな情報伝達を図れるよう、先人が残してくれた知恵が、固有名詞も含めた現在の漢字遣いだと考えています。
【松居秀記】