5月23日に開かれたオンラインイベント「広辞苑大学」を視聴しました。「頭の中にある意味 vs. 辞書に書かれた意味」をテーマに、心理学者の今井むつみさんと岩波書店辞典編集部の平木靖成さんが対談しました。今井さんは著書「英語独習法」(岩波新書)が話題になっていますが、筆者が読んだ「ことばと思考」(同)では、さまざまな基礎語を例に他言語と比較したり子供が言葉を学んでいく過程をたどったりすることで言葉が認識にどう影響を与えるかについて書かれており、非常に興味深いものでした。
【平山泉】
目次
「ウサギ」という言葉を使うには
対談では、まず平木さんが「今井さんに尋ねられたので」と「広辞苑」と「岩波国語辞典」(岩国)の違いを説明します。広辞苑は「辞典」と「事典」双方の性質を併せ持っています。百科事典に載るような固有名詞や専門用語などが入っているというところが岩国とのわかりやすい違いですが、国語辞典的な項目であっても説明が百科事典的になっており、古い意味から新しい意味という順に書かれています。岩国は7版までは自動詞としていた「駐車する」を8版で「トラックを駐車する」のように他動詞としても認めるなど、こまめに現代語の用法に対応していけるという特徴があります。「言葉を知るためには広辞苑、言葉を使うためには岩国」のように使い分けてほしいと平木さんは話しました。
対して、今井さんは「人の心の中に辞書がある」と話します。人は言葉を聞いた時、心の中の辞書に照らして自然か不自然かという区別をしているというのです。その「辞書」がどういう構造になっているかということを今井さんは追究しているのだそうです。
今井さんは白くて耳の長い「ウサギ」の写真を見せ、この生き物がウサギと知っただけではウサギという言葉を使うことはできないと言います。茶色いウサギや耳が垂れたウサギなどの写真を見せて、ウサギという言葉で言える「範囲」がわからなければ使えないということを説明しました。
「語の意味」以外に必要なもの
「右」についても話しました。「南を向いた時、西にあたる方」(広辞苑)、「アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側」(新明解国語辞典)など、「右」は各辞書が語釈に工夫を凝らしている項目です。しかし、これでも子供にはわからないでしょう。まずは「おはしを持つ手が右手」などと教えられることが一般的ですが、それだけでわかったことにはならないと今井さんは言います。例えば道路図で上方に向かって歩いている人が描かれた絵で、「右に曲がる」のはどちらのことかと尋ねたとき、正しく右が示せるかというと、子供には難しい。さらに、視点を逆にして同じ図で下に向かって歩いている絵で同様に「右に曲がる」を尋ねると、大半の子が右を示せないのだそうです。
大人についても、ある実験を紹介しました。背もたれのない丸椅子が中央に描かれた図の右の方に花瓶があると100%の人が「右にある」と言う。しかし、中央に描かれたものが奥側に背もたれのある椅子だったり、手前側を向いているロボットだったりした場合、丸椅子の絵と同じ位置にある花瓶を「左」と言う人が出てくるそうです。
つまり、右左には視点の問題がかかわるので、答えが一つになるとは限らないのです。
筆者(平山)は新聞の写真説明のことを思い浮かべました。AさんBさんCさんの3人がこちらを向いて並んでいる写真を載せる場合、その写真説明は読者から見て「Aさん(右)、Bさん(中央)、Cさん(左)」のように書きます。しかし「Bさん(中央)、その右は」というと、写真の中のBさんから見て「右」にいる人、Cさんとも見えます。こういったことに気をつけながら写真説明を書かなければなりません。
こうしたこと以外にも、言葉の使用には「文法」「文脈」「コロケーション(共起、語と語とのつながり)」などさまざまな知識が必要で、この知識を豊かに育てていくことによって言葉が的確に使えるようになるのだと今井さんは話しました。
「隣接する語との差」を追究する
今度は、平木さんが辞書に載せる言葉についてどのように考えながら書くか話しました。
ある言葉や意味を新たに入れる場合、実際の用例がどのように使われているかを見なければなりません。それだけでなく、自分であれこれ場面を想像しながら考えるそうですが、また逆に、載せるときには「典型的な意味」も考慮して記述するのだと話しました。今井さんの挙げたウサギの場合、実際には耳の垂れたウサギや耳の短いウサギもいますが、ほとんどの人はウサギの絵を描けば耳がぴんと伸びた動物になるでしょう。辞書に載せるにはそうした典型的な意味を書く必要があるというのです。
今井さんが言葉の意味の「範囲」について話しましたが、辞書の記述でも「隣接する語との差」を考えなければならないと平木さんは言います。
例えば、広辞苑7版では「焼く」と「炒める」の書き分けを見直しました。6版で「炒める」は「食品を少量の油を使って加熱・調理する」と書かれていましたが、これでは「ハンバーグを焼く」という場合とどう違うのかよくわからない。「直火ではなくて調理器具の上だ」とか「食材をぶつけ合いながら動かしながらだろう」などと考え、7版では「熱した調理器具の上に少量の油をひいて、食材同士をぶつけるように動かしながら加熱・調理する」となりました。
隣接した語の意味を考えていくと、それぞれの語の意味の範囲を示すことができるということでしょうか。
思い出したのは、以前岩国の編集者の方に伺った「ゆべし」の話です。ゆべしはクルミが入っているイメージがあるけれど、ないものもある? 味付けはみそ? ユズは必須だろうか――などと実際のものをさまざまに思い浮かべながら、では典型は……と考えていく過程を話してくださったことが面白くて印象に残りました。
平木さんはほかにも「なくす」と「うしなう」、「ふくらむ」と「ふくれる」など、似た言葉の意味の差を説明しました。そして、「同じ意味の言葉はない」と平木さんは言い切り、難しいけれど、この前提で書き分けていくのだと語りました。
「この場面では使わない」の不思議
さらに楽しかったのが、この後のフリートークです。
言葉の「意味」は辞書でわかっても、「この場面では使わないよね」といったことまではわからないことがよくあります。今井さんは「コーパス(体系的に収集された言語データベース)があれば、こういう場合に使う頻度が高いといったことがいくらかわかります。では、コーパスとは違う辞典の在り方とは」と尋ねました。平木さんは「そこを追求しなければならないのでしょうが」と言い、「コーパスは読み込まなければ傾向などもわからないわけですが、ふと疑問に思ったときに引けばすぐわかるような情報を提供できたらいいと思います」。
筆者はこれまで辞書づくりに携わる方に何度か話を伺ってきましたが、意味を書くだけでなく言葉の使い方についても充実させようという意識が垣間見えます。実際、近年改訂の辞書ではコーパスの情報を語釈に生かしたりと工夫されており、これからの国語辞典にも期待しています。
平木さんは「(椅子の上に落とした物を)おしりで踏んじゃった」という、足でなくても「踏む」を使って不自然ではない例を挙げました。今井さんは「確かにそれは言いますね」と応じ、子供が唇をかむことを「歯で唇を踏む」と言ってしまうという例を紹介しました。かむ動作を「踏む」と表現するのもなるほどなとは思うものの、大人は「おかしい」と感じます。なぜ「おしりで踏む」はありで「歯で唇を踏む」はなしなのか、判別しているものは何なのか――お二人は不思議がりながら、そこに面白さを感じているようでした。
校閲をする中でも、例えば、「道筋」「筋道」は「物事の道理」という共通の意味が辞書に載っているけれど「ここは筋道でなく道筋だ」と直しを入れることがあります。辞書には違いがわかるように書かれていますが、引く前に自分の頭の中にあった判断、それはどこからくるのか。これまでの言語生活、経験の蓄積から――としか考えつきません。日本語を使いながら大人になっていく人にはいくらか共通するものだろうとも思います。しかし、人によってずれるところもあるので、校閲記者は辞書を引くのだろうとも考えました。
今井さんの話から考えると、校閲は不特定多数の読者の頭の中の辞書にできるだけ合うように言葉を選んでいくような作業ということが言えるでしょうか。頭の中の辞書は目に見えないので難しいところがありますが、だから実際の国語辞典の助けが必要なのだと思います。
聴く前は、心理学者と辞書編集者との話がどう絡むのだろうと思っていたのですが、だんだん絡み合っていくようでした。それだけでなく、校閲の仕事にもかかわるように感じ、楽しく勉強になる90分でした。
今回の「広辞苑大学」は対談形式でしたが、前回は小学生向けのワークショップが開かれ、昨年は銀座のバーでカクテルを飲みながらという回もあり、さまざまに試みられています。広辞苑大学事務局からは「今後もことばと広辞苑の世界に関心のある方にたのしんでいただけるイベントを考えたいと思います」とのコメントをいただいており、次回も楽しみです。