読者から、次のような趣旨の異議申し立てがありました。
投稿欄で「想う」という字を、タイトルを含めてこの読者は使いたかったのですが、弊社のその欄の担当者にこう言われ、諦めたとのことです――「想う」は「おもう」と読ませられない、使うにはルビが必要になる、見出しにルビは付けられない、と。
後日、掲載された文章を見た投稿者の周りの誰もが「想う」がいいと言い、国語の先生にも「『思う』では気持ちが伝わらない。ルビの問題ではない」と言われたそうです。
「普通に使い、誰もが普通に読んでいる、きれいで、意味深い『想う』が使えない不思議が、納得いきません」とのことでした。
これに対する用語担当者の回答を、一部文言を加えて掲載します。
これまでのやりとりと多少は重複するかとは存じますが、用字用語担当者としての見解を述べさせていただきます。
「想」はかつての当用漢字表でも今の常用漢字表でも「ソウ」の音読みだけが掲げられています。常用漢字表は2010年に改定され、「鑑」に「かんが(みる)」の訓が認められるなど一部音訓も拡大しましたが、「想う」については依然認められていません。
したがって、少なくとも学校では「想」に「おも」という読みは教えていないはずです。新聞は基本的に義務教育で学ぶ範囲内の漢字を心がけていますから、「想う」は認めていないことになります。
一般的には「想う」は誰でも使う平易な言葉であり、国が決めた線引きに新聞が従うことはないと思われるかもしれません。しかし「想う」を認めると「思う」との使い分けの線引きをどこに定めるかという問題に突き当たります。
新聞はできるだけ冷静で客観的な文体で書くことが求められます。戦前の新聞ではかなり情緒的な文章がありましたが、それが日本人に好戦的な気分をあおった一面があるという反省に立っています。
「想う」の表記でそこまでいうのは大げさかもしれませんが、多分に感情の入る表記は、各記者によって判断基準が揺れ、結果的に混乱を生むことが予想されます。
歴史的には「おもう」に「想う」の字を当てることが一般的になったのは、それほど昔からではないようです。大野晋さんの「古典基礎語辞典」には「おもふ」「おもい」などの項で膨大な用例が集められていますが、ほとんどが平仮名か「思」です。わずか1例「想ひ」があるのみでした。
「想う」は近代以降の文学作品から盛んに使われるようになったのであり、日本語の歴史からいえば圧倒的に長い間「思う」は使われてきました。
明らかに「想像」「回想」の意味でも「想う」は見られません。例えば芭蕉の「笈の小文」の句はこうです。
さまざまの事おもひ出す桜かな
また、「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)によると、司馬遼太郎さんは「思う」を漢字で書きません――とあります。井上ひさしさんの文章によると
このことについてわたし、一度、司馬さんにお聞きしたら、「《おもう》というのは、どう考えてみても、大和ことばなんだよ。これを漢字で書くのはおかしい。それで平仮名にひらいているんですよ」というお答えでした。
ということです。
そこで提案ですが、次に新聞に投稿されて「想う」をお使いになりたいときは「おもう」と書かれてはいかがでしょうか。平仮名でもお伝えになりたい気持ちは十分伝わると愚考します。
この投稿者からは「次回がありましたら、自信と確信をもって、『おもう』を使わせていただきます」というお返事をいただきました。