生誕120年、没後60年を迎える小津安二郎監督の代表作の一つが「晩春」。これについて以前、校閲の立場でコラムを書き、本にもなったのですが、「女優・原節子」という表記は問題ないでしょうか。
2023年は小津安二郎監督生誕120年、没後60年に当たります。くしくも誕生日と死亡日が同じ12月12日です。
「東京物語」と並ぶ代表作「晩春」について、夏に出版した「校閲至極」の本に以下の拙文を載せました。まずはお読みください。その後に、表記に迷った点を二つ挙げます。
目次
『晩春』原節子の「おじさま」とは
(初出は2020年12月13日発行「サンデー毎日」)
今年は女優・原節子生誕100年。主演作の小津安二郎監督『晩春』(1949年)の一場面を紹介する原稿がありました。映画の初めごろ、原節子演じる「曽宮紀子」と、彼女が「おじさま」と呼ぶ「小野寺」が会う場面。小野寺のことが「叔父」、つまり親の弟となっていて、疑問を持ちました。
これとは別の映画監督の経歴で、大叔母に育てられたとあり、インターネットなどで調べ「大伯母では?」と指摘するも結局、関係性が確認できず「大おば」とされたことがありました。しかし「晩春」の場合は叔父、伯父という問題ではありません。小野寺は紀子の親類ではなく、父の友人ではなかったか。「おじさま」というのは「小父さま」のことではないか。
今はなき銀座の並木座などで何度か見たとはいえ、記憶に自信がなかったので、部内で小津安二郎にかけては生き字引と目する先輩に聞きました。「ああ、三島雅夫ね」と聞かれてもいない俳優名から始まり、くだんの場面のせりふをとうとうと再現。やはり父の親友で、親類ではないとのこと。安心して指摘し「父の友」に直りました。しかし――。
後でDVDを見ると、親戚とも父の友達とも映画の中では触れていません。そこで、図書館でシナリオを見て、ト書きに「親友小野寺譲」、紀子のせりふに「小父さま」とあるのを見て一安心。ところが、先輩は「シナリオと映画は違うからねえ」と言います。例えば、小野寺が目にとめた美術展のポスターは、シナリオでは「春陽会」となっていましたが、映画では「美術団体連合展」(主催は「毎日新聞社」!)。疑い出すと霧がかかってきます。
『映画はいかにして死ぬか』(蓮実重彦著)によると、今見られる小津監督の「東京物語」は、本物ではないそうです。オリジナルのネガフィルムが焼失し、蓮実氏の記憶に刻まれたショットが切られているとのこと。そういうこともあるから、何が映画の真実かは不確かにならざるを得ません。
それでも、「晩春」では例えば、小野寺が料理屋の亭主に紀子を紹介するとき「曽宮の娘だよ」と言うせりふがあります。叔父なら「俺のめい」とか言うところでしょう。親類ではないという絶対的証拠はないものの、状況証拠からは明らかに「友達の娘」です。
それに、このおじさん、再婚したことで紀子に「汚らしいわ」「不潔よ」と言われたのに妙にうれしそう。冗談めかしていましたが、これはきっと彼女の潔癖性を示す本音。それを本当の親戚に言うと、多分わだかまりが残るでしょう。子供の頃から付き合いのある他人だからこそ気軽に言え、おじさんもおおらかに受け流します。やはりあれは「小父さん」ですよね、小津さん。(岩佐義樹)
「女優」は「俳優」にすべきか
さて、ちょっと迷ったのは「女優・原節子」の表記です。ポイントは二つあります。
まず、ここ数年、女優を「俳優」と書く記事が増えていること。女性は女優、男性は俳優と書くことに、ジェンダー平等の観点から問題になることがあり、インタビュー記事でも男女にかかわらず「俳優」とする記事が増えています。
2018年に「毎日ことば」でアンケートしました。「男性俳優は普通『俳優』なのに、女性俳優を『女優』というのは……」という問いに「男女平等でないと感じる」4割、「問題ないと思う」「積極的に『女優』を使いたい」を合わせ6割でした。
新聞社として「男女平等でない」と思う人が半数近い表記を選ぶことがいかがなものかと思う半面、「俳優・原節子」と書くことに強い抵抗を感じました。「新聞社として」と書いたものの、社の方針としては公式に「俳優」に統一すべしという通達は出ていません。筆者の判断に委ねられているなら、なじみ深い「女優・原節子」のままにしようと思いました。今はともかく、原節子が生きていたころ、決して「俳優」とは呼ばれなかったでしょうから。
しかし、今になって読み直すと、「女優」はなくてもよかったのではないかという気もします。ここを削っても十分成り立つ文章でした。
呼び捨ては失敬か
もう一つの悩みポイントは「呼び捨て」にしてよいかです。故人はある程度時間がたてば敬称なしにするのが普通ですが、死後何年たてば呼び捨てにするという画一的な決まりは、少なくとも毎日新聞ではありません。ただ原節子さんは2015年に亡くなっているので、10年もたたないうちに呼び捨てにするのは失礼ではないかという葛藤があります。
また、以前は芸能人やスポーツ選手は敬称なしが当たり前でしたが、徐々に「さん」付けが広がりつつあります。これまでも芸能人が個人として、仕事とは無関係の場面で紙面に出るときは「さん」などの呼称を付けていましたが、その線引きはしばしば曖昧になります。それこそ、「女優・原節子生誕100年」という場合、生まれたときは女優ではなく一個人なので「原節子さん生誕100年」とすべきだという声が強くなるためか、「さん」付けの見出しの記事も見られます。が、「女優・原節子」というと一個人ではなく、称号という側面が強くなります。この点は「横綱・照ノ富士さん」とはあまり言わないのと似ています。
ということで、呼び捨ても維持しました。その判断について疑問の声は届いていませんが、絶対的な自信があるわけではなく、いまだに「原節子演じる」は失敬と思われないだろうかなどとハラハラしているのです。
【岩佐義樹】