「空気」と「空気感」の違いについて伺いました。
目次
捉え方は分かれる
「オンラインだと空気感がつかみにくい」などと使われる「空気感」――どう受け取りますか? |
常に「空気」と書くべきで「感」は不要 17% |
「空気」と同じだが「感」はあってもよい 22.8% |
「空気」とほぼ同じだがニュアンスが違う 36.7% |
「空気」と明確に違い、使い分ける 23.5% |
回答は割れました。ニュアンスが違うという回答が最多でしたが4割には届かず。「同じ」という人も「明確に違う」という人も2割以上います。
違うとすればどう違うのでしょうか。新明解国語辞典8版では意識的に区別しているようです。「空気感」は「特定の人・物・事象がかもし出すその場の雰囲気」。対して「空気」は「その場の人たちを支配する志向のあり方(雰囲気)」。同じ「雰囲気」ですが、「空気感」はある特定の個人(物)から周囲に向かって生み出され、「空気」は周囲から各自に影響する、つまり意識される方向が逆になっています。
記事の「空気感」には変化も
毎日新聞の過去記事で「空気感」を探すと、1990年代にはほとんどが文化・芸術関連の記事で使われていました。たとえば役者について「独特の空気感への期待が強い」、美術作家の発言として「あいまいな空気感を画面で表現したい」など。これらは「写真や映像などで、その場の雰囲気を感じさせる表現」(デジタル大辞泉)という「空気感」特有の意味を持っています。このように使われてきたからこそ、新明解は「空気感」を誰かが主体的に生み出すものと捉えているのでしょう。
しかし最近の記事では、「休みたいと言えないという空気感が人の命を奪っている」「暴力行為が当たり前の空気感で、罪の意識が希薄になっていた」などの例が見つかります。これは「その場の人たちを支配する」方向なので、新明解に照らせば「空気」に当てはまるはず。区別されずに「空気感」が使われているように見えます。
ぼかし表現としての「感」
ところで毎日新聞では昨年、安倍晋三元首相の国葬に関する記事で使われた、費用の「規模感」という言葉について議論になりました。「感」は不要ではないかというわけです。そこで出た一つの意見が、「規模」と言い切れるほど明確な額が示されるわけではないため「感」をつけているのでは、というものでした。そういえば「改憲のスケジュール感」といった用法も新聞記事で見られます。決定事項ではなくアバウトなものだという意味で、何にでも「感」をつけてしまう傾向があるのでしょう。
かつて「わたし的には……」などの「○○的」について、直接的な表現を避けて相手と距離感を保とうとしているのではないかと文化庁が分析していましたが、「○○感」もそれに近い意識の「ぼかし表現」の一つかもしれません。
曖昧な「空気」がさらに曖昧になることも
「空気感」も、「空気と言い切れないがそういう雰囲気のようなもの」ぐらいの意味で使われている可能性があります。今回のアンケート結果を見ても、「空気とはほぼ同じだがニュアンスが違う」と捉える回答が最多でした。しかし「空気」ですら曖昧なものなのに、それにさらに「感」をつけて曖昧にするというのもどうなのでしょう。
そして「空気」も「空気感」も同じだと捉える人も2割以上います。今回の例文で言えば、「オンラインの相手が醸し出している独特の雰囲気」というように、「空気感」特有の意味で受け取られる可能性もあります。使う場合にはなんとなくわかるでしょ、空気を読んで理解してね、という押しつけにならないように気をつけたいところです。
(2023年02月09日)
「全国大会の空気感を味わえた」「首相は国民の空気感が読めていない」。新聞記事にも「空気感」という言葉がしばしば登場しますが、「空気」とどう違うの?と聞かれたら困ります。三省堂国語辞典8版の「空気感」の説明は「ふんいき」。しかし「空気」を見ると「その場のようす。ふんいき」。同じでは……。▲デジタル大辞泉の「空気感」には「写真や映像などで、その場の雰囲気を感じさせる表現」という説明があり、「空気感のある写真」という用例が載っています。なるほどこれは「空気」と言い換えられませんが、使う場面は限られそうです。▲では「空気」で意味が通じる場合は「空気」と書いて、「空気感」独自の意味があるときだけ「感」を付けてくれればいいのに――と思うのですが、実際には例文のように「空気」との違いが分からない使われ方が目立ちます。もはや区別しない人が多いのでしょうか。それとも微妙なニュアンスの違いがあるのでしょうか。
(2023年01月16日)