講演者は平山泉(ひらやま・いずみ)。1992年に校閲記者として入社、東京本社・校閲に配属されて以来、2006年から2年間の大阪本社を含め一貫して校閲の仕事をしています。
どうしても私たちの仕事は受け身になります。その日に来る原稿を選べないし、予想もしづらい。備えるために用語集はあり、職場に資料もそろっています。ほかに、手元にあると役に立ちそうな気がして、私はいろいろ荷物も持っています。
川名壮志撮影 |
何が役立つか分からない
地図などもその都度つくるので校閲もその都度するのが基本ですが、2010年の夏に、図表などをつくるデザイン室と相談して、都道府県別の地図を校閲したことがありました。市町村合併で変わったところが多く、また「平成の大合併」が落ち着いてきたタイミングだったためです。細かいところも見だすと結構面倒で、全部OKになるのに翌年1月ごろまでかかりました。それが、ほどなく大いに役に立つことになってしまったのが東日本大震災でした。沿岸部の地図を連日載せて被害の状況を伝えたのですが、かなりチェックに役立ちました。役に立ってしまったというべきでしょう。せめてわたくしたち校閲ができることは誤りのない紙面を読者に届けること、ただそれだけですが、それだけでもできてよかったと思います。
こんなこともありました。あるとき家庭面の料理の欄を校閲していたのですが、鶏ひき肉でだしをとったアスパラガスのスープで、作り方を読んでいると間違いなく既視感がありました。調べたところ半年あまり前に同様にひき肉でだしをとったアスパラのスープが載っていて、タイトルは「クイックアスパラガススープ」でした。「ひき肉だしのアスパラスープ」と微妙に違うのですが最後に「ごま油を加えると中華風に」というところまで同じだったので、別の原稿にさしかえてもらいました。なぜ覚えていたかというと、先に載ったものをおいしそうだから切り抜いていつか作ろうと何度も見返していたのです。食いしん坊が役に立ったわけです。
「余録の諏訪さん」とのこと
細かい地味な仕事で、ただひたすら紙と資料とパソコンにじっと向かっているように思われるかもしれませんが、実は人とのやり取りも非常に大切です。仕事をしていく中でそう感じてはいましたが、確信をもったのは一つのできごとからでした。
1面コラム「余録」を23年も書いていた諏訪正人さんは社内でも非常に尊敬される大ベテランでした(今年2月に死去)。しかし、校閲にとってはちょっと困った相手でした。頑固だし、最後の3文字あきにこだわって、明らかな誤りならともかく微妙なものは直らないこともあったからです。1999年の統一地方選の市長選が多数あった日、1面担当だったため余録を校閲していて、「女性市長が一気に3倍に増えた」というくだりがありました。前年のある時点で1人だけで、その統一選で3人目が誕生したから「3倍」というわけなのですが、よくよく調べると3人のうち1人は前年5月に当選していました。統一地方選の話で「一気に3倍」と書いてあったらその日に2人増えたように見えないかと心配になりました。
「一気に」がなければよいのにと思って、ほかの校閲の先輩に相談しても同じ意見でした。そこで問い合わせに行って説明したのですが、諏訪さんは「直さない」といいます。食い下がったのですが、横から別の論説委員まで割り込んできて「いや、いいんだ」と言い張る。しばらく話しても直すと言ってくれず、「ほんとにこれでいいんですね」と捨てぜりふのように言って校閲に戻りました。悔しかった。まだ若いころだし緊張してもいました。顔を真っ赤にしていたらしく、先輩に「平山、泣いてんのか」と言われたのを覚えています。泣いていたわけではありませんが、それほど悔しかったのは確かです。
しばらくして、論説室から直しが入りました。直ったものを読むと、前段で「東京都国立市で東京都はじめての女性市長が誕生した。現役の女性市長はこれで3人目」などとあって、前年に女性の芦屋市長と対談したときのことが書かれ、最後に「この対談のとき、女性市長は1人だった。統一地方選を機に3倍に増えた」となっていました。こちらが言った「一気に」を削除するという単純な直しでなく、初めからこう書かれていたかのように自然でした。直ったことももちろんうれしく、読者のためにという信念で言えばいいのだと自信になりました。それだけでなく、自分の小手先の直しよりも自然な文になり、やはり書き手はすごいなと思いましたし、一緒にいい紙面をつくっていくのだという感覚を持てました。
その後は周りから見たら怖いものなしのように見えるようなのですが(笑い)、あの経験があったから、臆せず突き進むべしである、という確信を持つことができた、と思っています。
当日のライブ配信動画(約100分)