「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があります。外国人名を日本語でどう表記するかに関する文章によく出るので、ご存じの方も多いでしょう。
「ムハマドとは誰のことか」というような疑問が寄せられたのが、元プロボクサー、アリさんの訃報です。毎日新聞は「ムハマド・アリ」と表記しましたが、「『モハメド・アリ』が正しい」という読者の声が寄せられました。
1976年6月26日の毎日新聞夕刊から
毎日新聞ではこの人名表記に関する明文規定がなく、従来揺れていました。昔は「モハメド」かと思いきや、古い記事をデータベースで調べますと、1976年のアントニオ猪木さんとの対戦時に「ムハマド・アリ」と書いていました。毎日新聞も加盟する共同通信社の「記者ハンドブック」(2016年、第13版)の「外国人名表記例」にも「アリ(ムハマド)」とあります。
他紙はどうかというと、読売新聞と朝日新聞が「モハメド・アリ」ですが、日本経済新聞、産経新聞、東京新聞、スポーツニッポンなどは「ムハマド・アリ」で毎日新聞と同じでした。少なくとも新聞の数だけは「ムハマド・アリ」の方が主流。ただしテレビでは、一様に「モハメド」だったようです。
英語の動画などで発音を調べようと思いましたが、私の拙いヒアリング能力では話者によっていかようにも聞こえました。英語のインターネットサイトで人名一般のMuhammadを調べると、実に7種類もの発音記号が出ています。カタカナに直すと「モーハマド」「ムーハマド」「モーハメド」「ムーハミド」などとなるかと思います。
Muhammadはアラビア語がもとで、そもそもアラビア語には「O(オー)」と「U(ユー)」の発音の区別がないそうです。アリさんは米国生まれとはいえ、現地でも分かれるのはこのあたりの事情がありそうです。
ですから「ムハマド」「モハメド」のどちらかが正しく、どちらかが間違いということはありません。なお、猪木さんとの対戦時、新日本プロレスのポスターには「ムハメッド」、チケットには「モハメッド」と表記されていました。当時から表記がばらけていたことがうかがえます。
ところで、この表記問題でどうしても連想されるのが、イスラム教の預言者です。私もそうですが、一定年齢以上の人は、中学や高校で「マホメット」と習ったのではないでしょうか。今の教科書は「ムハンマド」か「ムハンマド(マホメット)」となっているようです。広辞苑では1991年の第4版で「ムハンマド 【Muhammad】マホメットのアラビア語名」とあり「マホメット」に誘導されていました。それが98年の第5版から「マホメット【Mahomet;Mohammed】ムハンマドの訛」と変わり、ムハンマドの方が主となっています。
毎日新聞でも、96年の社説から「モハンマド(マホメット)」と表記するようになり、今は「ムハンマド」のみになっています。元中東特派員によると「90年代後半に新聞表記の潮目が変わった」そうです。
アリさんに話を戻すと、英語のつづりが同じだからといって、預言者と米国人ボクサーを同一に論じるべきではないかもしれません。しかし、共同通信の用語担当者も「96年ごろには既にムハマドが圧倒的」と、ある会合で言っています。産経新聞も同年「ムハマド」に統一するというお触れを出したそうです。預言者の表記変更の流れと大体同じころです。
では「ムハンマド・アリ」という表記も「あり」ではないかという気もしてきましたが……それこそ「ムハンマドとは誰のことか」と思う人がさらに増えるでしょうね。
【岩佐義樹】