スポーツ選手の「まだ僕は未熟」というコメントをどう感じるか伺いました。
目次
「重言だが許容」が半数占める
試合に敗れて「まだ僕は未熟です」。この言い方は…… |
重言だと感じる。「未熟」だけでよい 22.6% |
重言だと感じるが構わない 52.1% |
重言ではないと思う 25.3% |
「重言だと感じるが構わない」と許容する方が半数を占めました。重言だから「まだ」は不要だとする方は2割程度で、「重言ではない」と思う方よりも少数という結果でした。
「まだ未熟」辞書の用例にも
明鏡国語辞典2版では、「まだ」の項で「『まだ未○○』は重言」と注意しています。しかし「未熟」の説明を見ると「経験・修練が不十分で、学問・技芸などが熟達していないこと。『まだ-な腕前』」とありました。重言でも「まだ未熟」は許容されるとの立場のようです。
同辞書には「重言のいろいろ」という囲み記事があり、「まだ未定」などが不適切とされる重言として挙げられています。一方で「第一回目」「過半数を超える」など毎日新聞では直すようにしている表現について「意味が明確になる、強調される、新しい意味が加わる、そもそも意味の重なりではない」などの理由で「『不適切な重言』ではない」としています。そうした理由の中に、「まだ未熟」が当てはまりそうなものもあります。
重言も時には「あり」という見解
一つは「一番最初」などの例。「一番」と「最」で意味が重なりますが、「意味を強調して明確にする」ものだと説明されています。「まだ未熟」も「まだ」を強調だと考えればよいかもしれません。今回の選手の例でいえば、この強調の「まだ」から、今後さらに鍛錬しなければならないという思いを読み取ることもできるでしょう。
もう一つが「かねてから」「古来より」などの例。「かねて」は「以前から」という意味、「古来」は「昔から今まで」という意味なのですが、「これらの語にある『から』『より』の意は強くは意識されず、『から』『より』を添えて意味を明確に」していると説明されます。
「未熟」という言葉も、単に力不足で修練が足りない状態を意味する言葉として使われ「未(いま)だ熟さず」という構造が意識されにくいため、「まだ」を添えて意味を明確にしているとも考えられます。
とはいえやはり要注意
こうしていくと他にも多くの重言が許容されそうな気もしますが、言葉を重ねれば強調・明確化が必ずうまくいくわけでもありません。谷崎潤一郎は「文章読本」で「何事も忍びに忍んで病苦と闘いながらよく耐えて来た母も、遂に実家へ帰らねばならぬ日が来た」という文章を「悪文」の例として挙げ、次のように評しています。
既に「何事も忍ぶ」と云えば一と通りの忍耐でないことは分っていますのに、「何事も忍びに忍ぶ」と、「忍ぶ」と云う字をまたもう一つ重ねてあります。(中略)重ねたことが少しも役立っていないのみか、却って文意を弱めております。(中略)これだけでも云い過ぎている所へ、「よく耐えて来た」と、更に加えてありますので、ますます効果を弱めることになり、ちょうど下手な俳優が騒々しい所作を演ずるのと同じ結果に陥っております。
「文章読本」中央公論社
重言だから、と何でもかんでも直してしまう必要はないでしょうが、谷崎が「言葉の濫費」というような過剰な表現を避けることで、文章を引き締める意義はあります。今回の「まだ未熟」のように理由が考えられる重言は許容し、そうでなければ重言は避ける、というのが穏当でしょう。アンケートで最多だった「重言だと感じるが構わない」派の考え方にも沿うのではないでしょうか。
(2019年08月23日)
水泳の世界選手権で、決勝に進出したものの敗れた塩浦慎理選手。「まだ僕は未熟ですね」とのレース後のコメントが記事中に現れました。
頭をよぎったのが、毎日新聞用語集で重複表現として挙げられている「まだ未解決」「まだ未定」という例。「未」は「まだ」の意味を含むため、「未解決」「未定」などとするよう案内しています。とすると「まだ未熟」の場合も「未熟」だけでよいのでは。
しかし日経新聞用語集には「いまだに」の項目で「事件はいまだに未解決」という用例が載っていました。「いまだに」と「まだ」は同様の意味ですから、これも重複表現と言えるでしょう。しかしあえて「いまだに」を入れることで「早く解決してほしいのに、それでもまだ」というニュアンスが感じられます。
迷った揚げ句、本人の発言を生かすという意味も含め、「まだ未熟」はそのままにすることに。「これまで鍛錬を重ねてきたけれども、それでもまだ」といったニュアンスがあるのでは、との判断です。読者の方々はそう感じ取って許容してくださるでしょうか。それともやはりくどいと感じられるでしょうか。
(2019年08月05日)