「触れ合う」という言葉の使い方について伺いました。
目次
「問題ない」が4分の3
「自然と触れ合う」という言い回し、どう感じますか? |
互いに触れるわけではなく違和感あり 25.6% |
比喩的な表現で問題ない 74.4% |
人が自然に触れるとしても自然が人に触れるわけではないだろう、と考える出題者がモヤモヤを感じて伺った質問でしたが、4分の3の人は「問題ない」を選択しました。「問題ない」が世の大勢と考えてよさそうです。この言葉、「触れ合う」の元の意味は「互いに触れる」とシンプルですが、使用の実態はそう単純でもないようで、国語辞典にも苦心の様子がうかがえます。
用法広がり辞書も苦心
まず典型的な辞書の説明は「互いに相手に触れる。接触する」(大辞林3版)というもの。しかし、実際には触れることのできないものにも使用が広がっています。大辞林は「心が触れ合う」という用例を載せている程度で用法の広がりには抑制的ですが、多くの辞書は意味の広がりを認めており、さまざまな説明を加えています。以下は用例と語釈の引用です。
大辞泉2版「会員同士が――・う場を作る」(互いに近づき、親しく交わる)
集英社国語辞典3版「心と心が――」「異文化と――」(互いに親しく交わる。また、対象に近づき、理解を深める)
新明解国語辞典7版「民衆の心に――政治」(接近した結果、両者の間に間隙が無くなる)
広辞苑7版「名画と――・う」(直接会ったり見たりして親しむ)
明鏡や大辞泉は理解しやすいでしょう。人と人が会う中でお互いに、身体的以外の形で触れるような経験をするということ。集英社の「異文化と――」も、交流として相互性はありそうです。新明解の「政治」はやや理解しづらいでしょうか。助詞が「に」であることも「~合う」という相互性を表す接尾語となじまず、受け取り方が難しいと感じます。
「触れる」で十分な場合も
しかしとりわけ攻めているといいますか、頑張っているのは広辞苑の「名画と触れ合う」でしょう。手で触れてはいけないものをあえて例示したところに、気概のようなものも感じ取れます。「人は名画を見る、名画は人に影響を与える」と考えれば一応は相互性があるかと見えますが、これは「名画に触れる」でも済みそうです。明鏡2版の「触れる」の語釈には「⑧ある物事にじかに接する。また、じかに接して影響を受ける。『異文化に――』『温かい人柄に――』」とあり、「名画に~」でもしっくりきます。広辞苑の「触れる」の語釈には明鏡のようなものがないので「触れ合う」に入れてきたのかもしれませんが、どうでしょうか。
大辞泉2版に見られる項目「ネーチャーゲーム」の説明には、「さまざまなゲームをしながら体全体で自然と触れ合うことによって、人間と自然の共存の大切さを子供たちに実感させる教育手段」とあります。これも「自然に触れる」でよいかな、とは思うのですが、五感を通して体に染み込むような体験には、自然の方から触れられているという実感を伴う場合もあるだろうとは想像され、表現として可能とする考え方はもっともです。出題者も今後はあまり考えすぎずに、「自然と触れ合う」も「あり」とすることにしようと思います。でも「カブトムシと触れ合う」はどうしますかねえ……。
(2018年12月07日)
「触れ合う」の意味は、端的には「互いに触れる」(広辞苑7版)です。「合う」は「話し合う」「殴り合う」「助け合う」などと同様で相互性を示す要素。人が自然に触れるとしても、自然の方が人に触れてくるわけではないのだから「自然と触れ合う」は無理があるようにも感じてモヤモヤします。
「動物と触れ合う」はまだ相互性があるようです。しかしこれが、哺乳類でも鳥類でもなく昆虫になるとどうか……。夏休みシーズンになると「カブトムシと触れ合う」のようなくだりを目にします。カブトムシを手に乗せるのは「触れ合っている」と言えるのか。人が「カブトムシに触れる」では駄目なのでしょうか。明鏡国語辞典2版は「触れ合う」に「心を通わせ合って親しく交わる」という語釈も挙げていますが、カブトムシと心を通わせるのは難しいかも。できる、という人もあるかとは思いますが……。
一方で、広辞苑は「触れ合う」の第2義として「直接会ったり見たりして親しむ。『名画と―』」という語釈と用例を挙げています。名画の方から人に触ってきたりはしませんから、これが通用するなら「自然と触れ合う」も「あり」なのかも。回答に個人的なモヤモヤの解消を求めてはいけないと思いますが、どちらかに答えが偏れば当方もスッキリしそうです。どうなるでしょうか。
(2018年11月19日)