酒造りの「杜氏」にルビを付けるとすると、「と・うじ」? 「とう・じ」? また杜氏と同じく酒造りの職人「蔵人」の読みは? 調べていくと、アニメの「君の名は。」につながったり、仕事でなじみの「ある言葉」に当たったりと、思いがけない展開が待っていました。
目次
「杜氏」は「刀自」だった?
11月5日に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の評価機関が「伝統的酒造り 日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術」を無形文化遺産に登録するよう勧告したと文化庁が発表しました。そのニュースで出てきた「杜氏」のルビ(振り仮名)について、どういう形で入れるべきか相談されました。
杜氏という漢字に「とうじ」というルビを付ける場合、次の三つのやりかたが考えられます。
①は「杜=と」「氏=うじ」と1文字ずつ対応させる、②は「杜=とう」「氏=じ」と対応させる、③は「杜氏」の2文字に「とうじ」の3文字を均等に配置する――ということです。
どうすべきか聞かれたのですが、答えは毎日新聞用語集に示されています。
「杜氏」は「とじ」とも読むことから「う」は行き場があいまいで、漢字の間のルビにしているのです。でも「とうじ」と読ませるなら「杜」は「と」、「氏」は「うじ」と分けられるはずなのになんで?と思う人も多いでしょう。
それは、杜氏という漢字は当て字という説があるからです。「杜氏」の語源は諸説ありますが、本来は「刀自」だったという説がよく語られています。
そういえば「君の名は。」のシーンに…
柳田国男の「女性史学」(岩波文庫「木綿以前の事」所収)にはこうあります。
「杜氏(とじ)」の字を宛てた理由というのが出たら目である。疑もなくもとは独立した女性の職務であったのが、刀自という名の意味が不明になった結果、男子にもこれを謂うようになったのである。
「刀自」は高齢の女性の名に付ける尊称です。柳田は「寺以外の造り酒の管理は、始めはすべて女性に属していたのである」と断定しています。その酒造りを男性が行うようになって「杜氏」という当て字が生まれたということです。
「女性史学」には続けてこうあります。
沖縄の島では近い頃まで、神を祀(まつ)るための酒だけは、なお若い綺麗(きれい)な娘たちによく歯を清めさせ、米を嚼(か)んでは器の中に吐き出させて、それを蓋(ふた)しておいて醗酵(はっこう)させたものが用いられており、カミザケという語も残っていた。すなわちこの最も貴重なる酵母は、清き処女の口の中からしか求め出されぬように見ていたのである。
ここを読んで、大ヒットアニメ映画「君の名は。」を思い出す人もいるではないでしょうか。神社に生まれたヒロインとその妹が「口噛(か)み酒」を造ります。その後の重要なシーンにも登場します。
「蔵人」が辞書にない?
それはさておき、今回のユネスコ登録の記事では「蔵人」という言葉も出てきました。一報の毎日新聞記事ではルビがなかったのですが、そのニュースを基にした毎日新聞1面コラム「余録」や毎日小学生新聞には「くらびと」と振ってありました。
「蔵人」の漢字自体は「くろうど」「くらんど」などの読みも考えられます。だから当然、辞書などで確認します。しかしどういうことでしょう、「くらびと」で手近の辞書をいくつもひいたのに、その読みの見出し語は見つからないのです。あの「広辞苑」にさえ載っていません。そのせいかどうか分かりませんが、手持ちのパソコンで「くらびと」と打っても「蔵人」と変換してくれないのです。
しかし、さすがに日本国語大辞典には載っていました。小型辞書の中では、岩波国語辞典が見出し語に採録していました。以下は岩波国語辞典より。
くらびと【蔵人】杜氏(とうじ)の下で日本酒造りに従事する職人。▽「くろうど」と読めば別語。
でも、なんで他の辞書は載せていないのだろうと不思議に思いました。この語は例えば前述の柳田国男「女性史学」にルビ付きであり、日本酒の本などにも多く出てきますが、たまたま辞書編集者たちの目に触れなかったのでしょうか。それとも、一般的な語ではないと却下されたのでしょうか。
いずれにしても、今回のユネスコ文化遺産登録を契機に、辞書で「蔵人」の「くろうど」ではない意味を載せる辞書が増えると思われます。ちなみに今回のユネスコ関連の英文には
lead sake brewery workers, called ‘kurabito’
とあります。
では「くろうど」の方は?
ところで、酒職人の蔵人とは別の意味とされる「くろうど」を入力すれば「蔵人」と変換されます。俳優の真木蔵人さんの名前にもなっていますが、「くろうど」とは何でしょう。
広辞苑によると「クラヒトの音便」とあります。つまりビ、ヒの清濁の別はありますが、今の酒職人としての「くらびと」の読み方は先祖返りなのかもしれません。そして意味は「蔵人所(くろうどどころ)」の職人とあります。その「蔵人所」とは
天皇に近侍し、詔勅、上奏の伝達や諸儀式など、宮中の大小の雑事をつかさどる役所。平安時代に創設。
などとあります。その長官が「蔵人頭(くろうどのとう)」。定員2のうち一人は近衛府の官人から任じられ、「頭(とう)の中将」というとあります。
蔵人頭といえば、大河ドラマ「光る君へ」でしばしば出てきたワードです。また「頭の中将」といえば、「源氏物語」の光源氏のいとこであり友人です。
ちなみに光源氏もそうですが、この人も本名が語られません。主人公や重要人物でさえ本名が分からないというのは現代人の常識では不可思議ですが、平安時代の名前は今と全く違う使われ方だったのですね。
これだから言葉の探索は面白い
蔵人の話に戻すと、平安京の蔵人は「校書殿」で働いていたそうです。この「校書」は「こうしょ」ではなく「きょうしょ」とされています。広辞苑によると
きょうしょ【校書】文書を校合すること。校正。
とあります。おお、こんなところに「校正」が! 今の校正作業とは全く違うのでしょうが、おそらく書かれてあることの正しさを担保し間違いを正す役割も多かったのではないでしょうか。
この稿を書き進めるまで「校正」にたどり着くとは思ってもみませんでした。まるで、タイムマシンではるか昔の森を探検したら出てきたところは自分の庭だったような気持ち。また、「杜氏」のルビが柳田国男を介して「君の名は。」のシーンに結びつくというのも刺激的な展開です。これだから言葉の探求は面白いのです。
【岩佐義樹】