当事者よりも傍観者的な立場の者の方が冷静でよく気が付くことを表す「岡目八目」。この言葉は囲碁が由来とされ、多くの辞書が「傍観者は対局者に比べ8目先まで手が読める」ことからとしていますが、疑問があります。
将棋の名人戦が先月始まり、囲碁の本因坊戦も開幕しました。そこで今回は碁将棋にまつわる言葉から、主に囲碁に関するものを取り上げます。日常語に多く入り込んでいながら、突きつめていくと実は謎の多い言葉もあります。伝統ある盤上遊戯の世界を、言葉の窓からのぞいてみましょう。
目次
「碁」と「棋」は元々区別しない
言葉を拾おうと資料を眺めていて驚いたことがあります。松尾芭蕉に「碁の工夫二日とぢたる目を明(あけ)て」という句があるのですが、ある本は芭蕉が碁好きだった証しとして扱い、別の本は「棋の工夫……」の表記で詰め将棋を詠んだものと解釈していました。
常用漢字表で碁と棋は別々の字ですが、漢語では元来区別がないと字典類に書かれています。日本でも古い時代の新聞や雑誌で囲碁のことを「囲棋」と書いた例が見られ、今でも棋士、棋譜などは碁と将棋の共通語です。芭蕉自筆の「初稿本『野ざらし紀行』」には「碁の工夫」と書いてありますが、区別しない時代の写本や編集で「棋」を使うことがあったとすれば、解釈が乱れても不思議はありません。
棋の字を使う語の他にも、囲碁・将棋共通のものは少なくありません。例えば「手」。先手、後手、初手という言葉は囲碁でも将棋でも使います。手数を数える助数詞としても共通です。
8手先を「8目先」と言わないが…
さて、ここで考えたいのが「おかめはちもく」という言葉についてです。「岡目八目」とも「傍目八目」とも書かれますが、「岡」が2010年に常用漢字表に入ったこともあり、新聞ではおおむね「岡目八目」と表記。当事者よりも傍観者的な立場の者の方が冷静でよく気が付くことを表す言い回しです。囲碁が由来とされ、多くの辞書が「傍観者は対局者に比べ8目先まで手が読める」ことからとしています。
しかし、疑問が生じます。囲碁では確かに「8目」という数え方はありますが、目(もく)は碁盤の線の交点(目=め)や、石の数を数える語です。手数については「8手先」とは言っても「8目先」とは言いません。
これを踏まえ「日本国語大辞典」(小学館)などは、改訂を機に「八目分の得をするような妙手を思いつくの意とする説もある」などと記述するようになりました。同社の話では、囲碁好きの編集者がそう改めたのだそうです。
ただし、日本棋院の囲碁殿堂資料館によると、江戸時代の用語集も「岡目八目 当局者迷、傍観者清」のような内容ばかりで詳しい説明はなく、同棋院の出版物も筆者それぞれの解釈で書かれ、統一見解はないといいます。
碁と無関係という語源説も
ある語源辞典には、こんなくだりもありました。「八目をハチモクといって、碁の勝負のことだと思う人が多くなったが、もと、ヤツメ(八目)は多くの目のこと」。民俗学者、柳田国男の著書にも同様の記述があります。
つまり本来は囲碁とは関係ないところで発生した語が、囲碁と関連づけられて読みも変わっていったのでしょうか。全く別の局面発生(この「局面」も囲碁・将棋と関係の深い言葉です)。探るほど謎はかえって深まり、このへんで投了やむなしの心境となりました。
ただ、仮に語源が囲碁と違っていたとしても、傍観者の方が局面を読めることが「あるある」と共感を得たために、この言葉が広まったということはいえると思います。そういえば校閲の仕事でも、一生懸命見ているはずの担当紙面の間違いを、別の担当者に脇から一瞬で指摘され、恥ずかしさとともに「岡目八目」という言葉が脳裏によみがえることがあるのです。
【宮城理志】
(2018年5月2日「校閲発 春夏秋冬」より)