「ビコウをくすぐる」という場合、どう表記するか伺いました。
目次
「鼻孔」がやや優勢も大差はつかず
食欲をそそる匂いの形容「ビコウをくすぐる」――どう書くのがなじみますか? |
鼻孔をくすぐる 51.4% |
鼻腔をくすぐる 41% |
どちらでもよい 7.6% |
「鼻孔をくすぐる」が「鼻腔をくすぐる」をやや上回る結果となりました。三省堂国語辞典で「こうばしいにおいが鼻腔をくすぐる」としていますが、「鼻孔」が比較的多くの人に支持されていることが分かりました。
使用実態も大差なし
毎日新聞データベースで使用頻度を調べると、「鼻孔をくすぐ」「鼻腔(びこう)をくすぐ」はともに40件余りとほとんど差がありません。件数が少ないのでグーグルでも検索してみました。“鼻孔をくすぐる”約4万件、“鼻腔をくすぐる”約5万件と、「鼻腔」が優勢になりましたが、決定的な差とはいえません。
「青空文庫」で「鼻孔をくすぐる」を検索すると、牧逸馬「戦雲を駆る女怪」、火野葦平「花と龍」と、大正以降の例二つくらいしか見つかりません。「鼻腔をくすぐる」は見いだせませんでした。原文には当たっていませんが、いずれにせよあまり歴史のない表現といってもいいでしょう。
「鼻孔」の方が柔らかい表現か
そもそも「鼻孔」と「鼻腔」はどう違うのか。8版が出たばかりの新明解国語辞典を引いてみました。
びこう【鼻腔】鼻の孔(アナ)の中の空間。〔医学の世界では「びくう」と言う向きもある〕
【鼻孔】鼻の孔(アナ)
個性的な語釈や用例で知られるこの辞書ですが、これでは両者がどう違うのかよく分かりません。「ビコウをくすぐる」の用例もありません。そこで「くすぐる」を引くと――
(他人の足の裏やわきの下などの)皮膚を軽くなでるようにして、じっとしていられないような笑いたいような感じにさせる。
という語釈に「文章自体がくすぐったい!」と思いました。これこそ新明解国語辞典の真骨頂で、他の辞書ではなかなかこうはいきません。
それはともかく、この語釈を読んだ上で「鼻孔をくすぐる」という字面を見ると、匂いよりも、寝ている人の鼻の穴をこよりでこちょこちょするいたずらを連想してしまいます。もっとも、同僚の中には「鼻腔をくすぐる」だと「痛そう」と言う人もいて、感じ方は人それぞれのようです。読者ツイートでも、「鼻腔を選ぶ」としつつ「鼻孔の方が柔らかい表現かな」と、同じ人の中でも揺れのあることを明かす反応がありました。
嗅覚器があるのは「鼻腔」だが
改めて「ビコウをくすぐる」の用例を載せる辞書を探しましたが、結局発見できたのは三省堂国語辞典7版の「鼻腔をくすぐる」だけでした。
前述のように「鼻孔」を使った文も数では引けをとらないくらいあります。それでもあえて「鼻腔」の例として載せた三省堂国語辞典の存在は貴重なのですが、この辞書一つだけで「鼻孔をくすぐる」が不適切と判断するのはためらわれます。そもそも使い分けとして「ビコウをくすぐる」では「鼻腔」が推奨されているのか、今ひとつ判然としません。
広辞苑などが示すように、嗅覚器があるのは鼻腔です。だから匂いの形容としては「鼻腔をくすぐる」が学術的には妥当といえなくもないでしょう。ただ、学術的といえば別の厄介な問題が派生します。「鼻腔」をどう読むのか、という大問題です。
ビコウと読むなら「鼻孔」という判断も
今回調べたすべての国語辞典は「鼻腔」の読みとして「びこう」を見出しにし、注釈で医学用語では「びくう」、などと記しています。「びくう」を見出しにして語釈を書いている辞書は見当たりません。
ところで、「腔」は常用漢字ではないため新聞では読み仮名を入れなければなりません。新聞では「医学関連では鼻腔(びくう)」と「びくう」の場合を限定しています。しかし使用実態として「鼻腔」という言葉そのものが医学的です。だから「副鼻腔炎」など病名はもとより、次のような文例でも「びくう」となります。「PCR検査には、綿棒で鼻の入り口に近い鼻腔(びくう)から検体の粘液を取る方法がある」
そもそも医学関連ではない「鼻腔」の使い方はあるのでしょうか? 「鼻腔をくすぐる」は単に匂いの形容なので医学と関係なさそうです。だから今回の出題に際しては「ビコウ」という読みをつけましたが、それでも「鼻腔はビクウと読むのではないのか」という疑問が寄せられました。
確かに、嗅覚器官を刺激するという生理学的な使い方は医学と不即不離ですので、「鼻腔をくすぐる」の場合も「びくう」と読んでもよいといえるかもしれません。となると、「医学関連」の呪縛から離れて純粋に匂いの形容として「びこう」を使うなら「鼻孔をくすぐる」の方が適切という判断もできそうです。
しかしそれでは、ますます「びこう」と読む「鼻腔」の出る幕がなくなってしまいます。それなのに辞書が「鼻腔=びこう」としたままでよいのかという気もしてきます。考えすぎでしょうか。
どちらを使うか、決め手は見つからず
今回のアンケートの結果を見ても、また辞書などの記述を調べてみても、「鼻孔」と「鼻腔」のどちらが正しいかはもちろん、どちらがお勧めかという指針も校閲としては出せそうもありません。その時々で、それぞれの判断で決めるしかないと思います。
(2020年12月04日)
例えば、おでんのだしの匂い。あるいは、お好み焼き屋のソースの匂い、いややっぱりカレーでしょ……なんでもいいのですが、食欲をそそる匂いの形容として「ビコウをくすぐる」という言葉があります。
「鼻孔」は鼻の穴、「鼻腔」は「鼻の中の空所」のこと(毎日新聞用語集)。ほとんど同じ意味ですね。では「ビコウをくすぐる匂い」はどちらでしょう。比較的新しい表現のためか、ほとんどの辞書は用例を載せていません。「鼻孔をくすぐる」も「鼻腔をくすぐる」も、毎日新聞では決めていないので同じくらい出てきます。どちらでもいいのでしょうか。
ただ、三省堂国語辞典(7版)は「鼻腔」に「こうばしいにおいが―をくすぐる」という用例を掲げています。広辞苑の「鼻腔」の語釈の一部に「嗅覚器がある」とあることも勘案すると「鼻腔をくすぐる」が適切といえるかもしれません。皆さんはどちらと思いますか。
(2020年11月16日)