「感動をありがとう」という表現についてうかがいました。
目次
「違和感なし」は2割にとどまる
「感動をありがとう」という言葉、違和感ありますか? |
違和感はない 21.5% |
やや違和感があるが慣れた 36.1% |
違和感が強い 42.4% |
今回のオリンピックでも使われた「感動をありがとう」という表現。違和感があるかどうか、うかがいました。「違和感はない」との回答は2割強にとどまり、「慣れた」も含め大半が違和感ありと思っていることが分かりました。
別のアンケートでも少ない好印象
コピーライターのタカハシマコトさんによる「その日本語、お粗末ですよ!」(宝島社新書、2012年)で知ったのですが、この言葉の印象を尋ねた同年のインターネット調査がありました。
好きなフレーズである 13.3%
通り一遍に聞こえる 35.6%
あまり好きではない 22.7%
とくに何も思わない 28.4%
とのことです。回答の選択肢は違いますが、ネガティブな印象が過半数という点では似た傾向を示しているようです。
いつからこの表現が使われているのでしょう。毎日新聞のデータベースで確認できる最も古い記事によると、1990年10月13日にロッテ・村田兆治投手が西武戦で最後の登板をしたとき川崎球場に「夢と感動をありがとう」の垂れ幕が掲げられたとのことです(画像を確認すると正確には「兆治!夢と希望と感動をありがとう」)。でもこれ以前にも記事に載らないところで使われていた可能性が高く、実際の発祥時期は分かりません。
昔から「~をありがとう」は使われていた
今回の質問の回答時、質問者のコメントでは「ありがとう」は感動詞なのに目的語を接続させることへの疑問を記しました。しかし明鏡国語辞典3版には「使い方」として「『贈り物を頂きまして、ありがとう』などを省略して『贈り物をありがとう』などと言うこともある」とあります。最近の使い方と思いきや、
きのふははがきをありがたう (宮沢賢治「どんぐりと山猫」)
御使(おつかい)をありがたう (夏目漱石「草枕」)
など、古い用例も少なからず見つかります。
「『ありがとう』という品性」(尾崎克之著、啓文社書房)の孫引きですが、1979(明治12)年の「英華和訳字典」(訳者の一人は津田梅子の父津田仙!)では
I thank you for a glass of water~ミヅヲアリガタウ
という訳が当てられています。
「~をありがとう」というのは「~を頂きまして」が略された形と考えるのは自然ですが、もしかしたら、thank you forの英文直訳から来たと考えることもできそうです。
「感動を与えてくれてありがとう」の略?
いずれにしても、「~をありがとう」というのは誤りとは見なせません。ではなぜ「感動をありがとう」が違和感を抱かせるのか。
明治の辞書の「水」にしても、「どんぐりと山猫」の「はがき」にしても、相手からもらう「もの」です。「草枕」のお使いは「もの」ではないものの、具体的な相手の行為です。これに対し「感動」は自分の感情です。自分の感情に対し「ありがとう」と言うのは変――それが違和感の理由として考えられます。
しかし感動も「与える・与えられる」ことができると解釈すれば、間違った表現と言えなくなるという見解もありえます。実際、岩波国語辞典の「感動」の用例には「感動を与える」があります。
こういう文例もあります。
そのうちの或る物は、彼女に、私の知り得ないような小さな感動をさえ与えているらしかった。(堀辰雄「風立ちぬ」)
美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。(夏目漱石「三四郎」)
つまり、感動が「与える・与えられる」というのも昔からある表現です。とすると、それを受け取った人が相手に感謝したくなったとき「感動をありがとう」と言うのもあながち不自然とはいえなくなります。「感動を(与えてくれて)ありがとう」の括弧が省略されたということです。
誤用ではないが…
「アスリートは別に誰かを感動させるために頑張っているわけではない。だから『感動をありがとう』と言うのは不適切」という意見もあります。
ではアスリートの立場からすると、そう言われるのはどんな気持ちなのでしょう。パリ・パラリンピック自転車金メダリストの杉浦佳子選手の言葉です。
「健常者だったとき、趣味で自転車の大会に出て、勝って帰ってきても『おつかれ!』って言われるだけ。まあ普通ですよね。それが『感動をありがとう!』って言われて……うれしくないわけがないですよ」(毎日新聞9月4日)
ただし、アスリートも人それぞれでしょう。パリ五輪のスポーツクライミングで銀メダルを取った安楽宙斗(あんらく・そらと)選手のコメントは「普通に悔しい」でした。この17歳の若者の使う「普通に」は、53歳の杉浦選手の「まあ普通」とは恐らく意味が違います。若者言葉としては「一般的に言えば悔しい」という感じでしょうが、いろいろな意味でクールな対応でした。その一言の裏には「めっちゃ悔しい」とは違う複雑な感情が渦巻いているに違いありません。
その安楽選手の地元で「感動をありがとう!」という言葉が繰り返されています。日本語として間違いではないとしても、普通すぎる安直なフレーズの印象は免れないかもしれません。いや別に「普通におめでとう!」と書けとか言いませんけど……。
そういえば「永田町の変人」と言われた小泉純一郎首相(当時)が2001年、けがにもかかわらず優勝した貴乃花にかけた言葉は今でも語り草です。「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」
そのフレーズが共感を呼んだのは、シンプルに自分の感情を公の場で述べたからでしょう。それに対し公の機関が発する「感動をありがとう」への違和感は、誰による誰に対するメッセージなのか、妙に拡散して分かりにくくなっていることによることもあるのかもしれません。
アンケートで「やや違和感があるが慣れた」も含め違和感派が多数を占めたからといって、「感動をありがとう」を校閲が誤った表現として直すことはできません。ただ、その言葉は陳腐もしくは安直ではないか、素直に伝わるだろうか――などと考えたうえで使ってほしいものです。
(2024年09月09日)
オリンピックやパラリンピック、高校野球など大きなスポーツ大会が終わるとき「感動をありがとう」という言葉が用いられることが少なくありません。そしてそれに違和感を唱える声も以前から時々取り上げられます。
最近では、毎日小学生新聞編集長が「勇気をありがとう」とあわせ異を唱えました。「『感動』や『勇気』は、誰かがくれるものなのでしょうか。どちらも自分の中から湧いてくるものではないのかな」(7月27日と8月10日の同紙コラム「鈴と小鳥と」)
文法的に考えると、「ありがとう」という感動詞に「~を」という目的語を接続させることが奇妙といえるでしょう。「感動させてくれてありがとう」なら少なくとも文法上は問題ないと思われますが、それでも「アスリートは他人を感動させるために頑張っているんじゃない」という理由で違和感が残るのでしょうか。それとも、「感動をありがとう」にも特に違和感は覚えないでしょうか。
(2024年08月26日)