女性の皆さんは自分をどう言っていますか? 「わたし」?「あたし」?相手による? 小津安二郎監督「東京物語」と宮崎駿監督「ルパン三世・カリオストロの城」のヒロインは何と言っているでしょうか。
2023年の流行語は「あれ」でしたが、この言葉は古語では自称詞、つまり自分のことをいう言い方にもなるそうです。まあ阪神優勝とは全く関係ありませんが、今回は女性が自分をどう言うかというのがテーマです。
「うち」とか「あっし」とか、男性と同じ「ぼく」「おれ」を使う女性もいるようですが、それほど多くはないでしょう。ここでは、映画の中の女性が自分をどう呼ぶかという観点で記します。
目次
「東京物語」シナリオでは「あたくし」だが
最近衣替え(というか縮小)したNHKの衛星放送で12月12日に小津安二郎監督の「東京物語」をやっていました。この日が小津監督生誕120年の誕生日にして没後60年の命日ということを意識した編成でしょう。
取り上げたいのは「東京物語」で原節子演じる「紀子」のせりふです。上京した笠智衆・東山千栄子演じる老夫婦の世話をかいがいしくする次男の妻を演じました。ただし次男は戦争で亡くなっていて、「いわば他人」の紀子が上京した義父、義母を本当の子供よりももてなすというストーリーです。
最後近くの紀子と義父(笠智衆)とのやりとりはよく引用されます。義父は死んだ自分の息子の嫁としてふるまう紀子を気の毒に思い、再婚を勧めます。それに対し、紀子は時々夫のことを忘れる自分のことを何と言ったでしょう。
「あたくし猾(ずる)いんです」
このせりふがよく記されるのです。義父は「やっぱりあんたはええ人じゃよ、正直で」と慈愛に満ちた言葉を続け、笠智衆が神様のように見える名シーンです。
ところが、DVDで確認すると、紀子は自分のことを「わたくし」と言っています。「あたくし」には聞こえません。
「日本シナリオ体系」第2巻(映人社)には「あたくし猾いんです」と書いてあります。「あたくし」と引用する場合はそれを基にしていると思われます。
相手によって使い分ける紀子
先週「シナリオと映画は違うからねえ」という小津映画に詳しい先輩の言葉を紹介しましたが、これもその一つのようです。紀子は「あたくし」という言い方をしないと現場で判断されたのでしょうか。しかし、義母との話では「あたし年とらないことにきめてますから」とシナリオにあり、映画の中でもその通り紀子は「あたし」と言っています。
なぜか、義父と義母とで紀子は自称を変えているということです。意識的か無意識的かわかりませんが、義母とはいえ女同士では「あたし」、義父相手は「わたくし」というかしこまった言葉を使おうということになったのかもしれません。
そのへんの意図は想像の域を出ませんが、シナリオではなく映画そのもののセリフを記すとき「あたくし」と書くと不正確といえます。
また、「私、ずるいんです」という表記も、間違いとはいえませんが望ましくはありません。「私」だと「わたくし」と言ったのか「わたし」と言ったのかわからないからです。
「わたくし」というのは「あたし」「わたし」よりもかなり公的な印象があります。たとえば皇室の方々は公のインタビューで必ず「わたくし」と言っています。私的にはどういう自称が使われるかは分かりませんが。
「カリオストロの城」のクラリスの場合
ところで、録画していたビデオで先日、宮崎駿監督「ルパン三世・カリオストロの城」を見たのですが、ヒロイン、クラリスのセリフで「おやっ」と思いました。クラリスはカリオストロ公国のお姫様ですが、塔にとらわれの身になっているところにルパンが現れます。その時のクラリスのセリフが――
わたくしになにか差し上げられるものがあればいいのですが。
です。「どうかこの泥棒めに盗まれてやってください」というルパンに
わたくしを?
と確認しますが、次のやりとりで
わたしを自由にしてくださるの?
「わたくし」から「わたし」に変わっています。そして最後のシーン。ルパンとの別れです。
わたしも連れてって。泥棒はまだできないけどきっと覚えます。わたし……わたし……
「わたし」と書いてみましたが「あたし」と聞こえないこともない発音でした。この自称の変化から、お姫様という立場から一人の女性へと脱皮する過程がうかがえます。もっとも結局は相手が泥棒でも男性に付き従おうという覚悟を示しただけで、自立とは違うのですが、1979年のアニメとしてはこのあたりが限界だったかもしれません。
それはともかく、意識的であれ無意識的であれ一人の女性がその時の状況や気分に応じて「わたし」「わたくし」「あたし」「あたくし」と自称が変化するのは不思議ではないと思います。男性の「わたし」「ぼく」「おれ」などの全く違う言葉に比べバリエーションに乏しいのですが、振れ幅は小さくても統一されているわけではないでしょう。
小説の校閲をやっていると、同一人物の自称が同じ場面で違うことがあり、それはその人物の心理のあやを示す使い分けなのだろうか、と思いつつ、仕事としては単なる間違いの可能性もあるので一応指摘します。でも、状況により微妙に変わる揺らぎを読み取ると、ばらばらでもいいのでは、という気が一方でしてきます。
英語のIなどに比べ、せっかく自称がいろいろある日本語ですから、その豊かさを楽しむのも一興ではないでしょうか。
【岩佐義樹】