書籍「校閲至極」でも取り上げたように「ら抜き」は校閲にとって悩みどころです。使う人は増えていますが「お言葉ですが…」の高島俊男さんはどう捉えていたでしょうか。また「○○さんは来れましたか」を「○○さんは来られましたか」に直してよいでしょうか。
8月末に出版した「校閲至極」(毎日新聞校閲センター著)はさまざまな形で紹介され、ありがたい限りです。例えばダ・ヴィンチwebで「白色に見えるサワラ、実は『赤身魚』? 思い込みを排除し、正しい情報を伝える校閲記者のコラム集はドラマだらけ」というタイトルで、コラムの一つ「サワラは白身? 魚と校閲の筋肉」を紹介していただきました。
また、プレジデントオンラインでは「『来れますか』『来られますか』どちらが正しい?…ことばのプロも翻弄される『ら抜き言葉』の奥深さ」というタイトルで、4本のコラムが転載されています。今回はこの「ら抜き言葉」について、言葉についての別のコラムから引用しつつ考えたいと思います。
目次
「お言葉ですが…」の「ら抜き」論
中国文学者の故・高島俊男さんの「お言葉ですが…」。週刊文春に10年以上連載された人気コラムです。その第1巻に「見れます出れます食べれます」という文章があります。
高島さんは自分では「ら抜き」に違和感をおぼえるとしつつ「今から五十年もすれば、相当口うるさい年寄りでも、平気で『この服はまだ着れる』『煮ても焼いても食べれない』などと言うようになるだろう。文章にも用いられるようになる」と、時とともに定着すると予想しています。しかし――
だからと言って、今「ら抜き」に不快を感じる者が、「いやだ」と言うのを遠慮する必要はすこしもない。それどころか、ハッキリと、決然と、そう言うべきである。
としたうえで、新聞にも注文します。
ことばの問題となると新聞は国語学者に御意見をうかがう。あれはナンセンスである。国語学者にきけば、「日本語が乱れていると言ったって、そりゃ日本語はいつだって乱れてますよ」とか、「ことばは変化するものですからねえ、それを押しとどめようというのは無理ですよ」と言うにきまっている。数百年、千数百年の間の言語の激変を平生相手にしていれば、どうしてもそうなる。
だからことばの今の使い方は素人の保守的なじいさんばあさんに聞けばいいと高島さんは主張します。
「来れますか」が「来られますか」を逆転
これは1995年のコラムです。それから30年近く。50年後には「煮ても焼いても食べれない」をお年寄りも使うようになるという予言はある程度現実になろうとしているようです。2020年度の調査では「こんなにたくさんは食べれない」を選んだ人は70歳以上で23.1%、60代で27.9%。この数字は年ごとに高くなっていくでしょう。また「来られますか」については以下のグラフの通り、「来れますか」の方が多くなっています。
でも、書き言葉としてはどうでしょう。特に不特定多数を相手にする文章では、おのずとその場にふさわしい言葉が求められます。校閲としては「保守的」な立場で赤字を入れざるを得ません。
しかし、単純に「ら」を足せばいいかというと、そうでもなさそうなケースがあります。例えば「○○さんは来れましたか」という文があるとします。どうしましょう。
「来られ」は可能なのか尊敬なのか
「ら抜き」なので「○○さんは来られましたか」と直すとします。するとこの「られ」は可能の意味なのか、それとも尊敬の意味なのかが分かりにくくなってしまいます。この尊敬の意味との紛らわしさは、「ら抜き」が広がる原因の一つともいわれています。
尊敬の場合、話者より○○さんの方が上位ということがうかがえます。もっとも尊敬語を使うなら「○○さんはいらっしゃいましたか」と言うのが自然でしょうが。
可能の意味なら「○○さんは来ることができましたか」とすると意味ははっきりします。少々まだるっこしい感がありますが、少なくとも尊敬語と誤解されるよりはいいでしょう。
このように、「来れる」は不適切なので正すのはいいのですが、機械的に「ら」を足せば、かえって分かりにくくなることもあるので要注意です。校閲としては、文脈に応じて筆者に確認もしくは文自体の書き換えを求める必要があります。
そんな面倒なことをしなくても、「ら抜き」を認めればいいではないかと思う人もいるでしょう。「それでもことばは変わってゆくだろう」と高島さんも記しています。しかし一方で「年寄りは頑固でなければならない」「世のなかは、自分の感覚の正当を信ずる者がそれを強く主張することによって持ってきたのだ」とも強調します。この「年寄り」は「校閲」と読み替えてもいいのではないでしょうか。
【岩佐義樹】