「代償」という言葉の使い方について伺いました。
目次
4割は「失敗の代償」も「使える」とするが
「○○の代償」は大きかった――使えるのはどちら? |
失敗の代償 28.9% |
成功の代償 59% |
上のいずれも使える 12.1% |
「○○の代償」というなら「成功の代償」を使う、という人が6割を占めました。ただし、そのほか4割の人は「失敗の代償」も使えると考えており、「代償」の使い方は必ずしも安定していると言えないようです。
マイナスを埋め、プラスを削るのが「代償」
現在使われる「代償」の意味は大きく二つあります。一つは「他人に与えた損害に対して、金品や労力で償いをすること。『かけた迷惑の―を支払う』」。もう一つは「目的を達するために、犠牲にしたり失ったりするもの。『命を―として勝利を手にする』」というものです(大辞泉2版)。
要するに、他人にマイナスを与えた場合に金品などでそれを埋め合わせる、というのが一つ。自分がプラスを得る場合にそれと釣り合うような対価を払うというのがもう一つです。何がしかの出来事で、幸福度や財物に増減が生じるという場合に、それを元の状態に近づけるため払うのが「代償」と言えるでしょう。
相手の駒を取るため持ち駒を「代償」に
毎日新聞の過去記事を見ると、将棋の記事などでよく「代償」を見かけます。自分の手駒を取らせつつ相手の守りを削る場合、「角を代償に金銀を剝がしにかかる」といった使い方がされています。代償なしに自分だけが有利になるような手段は存在しないということで、自分がプラスになる分の対価を駒で払っているとも、相手のマイナスに対して自分の持ち駒で埋め合わせをしているとも読むことができます。
あるいは、例えばサッカー選手だったマラドーナ氏については「栄光の代償は大きかった」というコメント。これはプラスの分だけ対価を払った例でしょう。「古里を奪われた代償」のような使い方は、文字通り償いの意味で、マイナスを埋め合わせる用法です。
こうした例を見たうえで質問文に戻ると、やはり「成功の代償は大きかった」という方が「失敗の代償」よりなじみやすいだろうと考えます。成功というプラスを代償が目減りさせる、という形です。「失敗の代償」というなら、失敗というマイナスの分を他から受け取ることになるはずですが、「失敗の代償は大きかった」という質問文のような形で、「大きな代償を受け取った」と読む人はあまりないのではないかと思います。
バランスをとるのが「代償」
「代償」のことを考えていて念頭に浮かんだのは、フランスの文豪、バルザックの小説「あら皮」のことでした。「あら皮」は不思議な力を持つロバの皮で「所有者のあらゆる願いを叶(かな)え、その代償として所有者の命を縮めていく物体」(「あら皮」訳者解説、藤原書店)。快楽や財産が手に入るとその分、所有者の寿命と一緒に縮む「あら皮」は、幸福を差し引きゼロにしてしまうものです。「代償」と意味の似る「代価」という言葉は「売買」「交換」を連想させるのに対し、「代償」はあくまで事後的な「埋め合わせ」というニュアンスを伴います。幸も不幸もこうしてバランスをとるものだと言われているようです。
今回の質問のきっかけになったのは「『アラブの春』の失敗の代償は大きかった」という一文でした。このくだりに続いて、エジプトの混乱や地域の不安定化、シリアの惨状などがつづられます。失敗の「代償」が惨状であるなら、あまりにやり切れない話で、せめて言葉の上からは「影響」「余波」などとすべきだったかと考えます。
(2021年05月11日)
「代償」は読んで字のごとく「代わりの償い」。「①本人に代わって弁償すること。代弁。②他人にかけた損害のつぐないとして、その代価を出すこと」(広辞苑7版)という意味が先に立ちますが、そこから「(比喩的に)ある目標を達成するために払う犠牲や損害」(同)という意味でも使われます。
以前、ある原稿の「失敗の代償は大きかった」というくだりが問題になったことがあります。上の辞書の定義からすると、「失敗」を達成するために犠牲を払うというのは考えにくく、「成功の代償」はあり得ても「失敗の代償」はあり得ない、と言えます。
ただし辞書によっては「何かを失う代わりに得られるもの。損害のうめ合わせや、苦労の見返り。代価」(三省堂現代新国語辞典6版)という説明を載せているものもあります。この場合はマイナスへの埋め合わせとしての「代償」であって、「失敗の代償」もないとは言い切れないかもしれません。
もっとも、当該の原稿の場合は「代償」自体が負の出来事だったので、やはり辞書の定義からは外れた用法でした。質問文のような形は「成功の代償」が順当だと思いますが、皆さんはどう感じたでしょうか。
(2021年04月22日)