10年ぶりの改訂第8版が発売された岩波国語辞典(岩国=いわこく)の話を中心に、編集部の赤峯裕子さんと奈良林愛さんにお聞きした内容をまとめた後編です。校閲記者が気になる岩国の表記、辞書編集者の情報収集や判断のポイント、辞書の校正・校閲などについても突っ込んで質問しました。岩波書店の辞典編集部に所属するお二人は、岩国だけでなく広辞苑の改訂にも関わっており、話は広辞苑も含めた“辞書のつくり方”に広がりました。
【聞き手/本間浩之・平山泉】
1990年岩波書店入社、2005年辞典編集部配属。岩国第8版の編集責任者を務めた。
奈良林愛(ならばやし・あい)
2006年岩波書店入社、16年辞典編集部配属。広辞苑について聞いた記事に続き2回目の登場。
目次
辞書に載せる語 判断基準は
――言葉が「定着」したかどうかは何を基準にするのですか。
◆赤峯さん 出版物に表れるかどうかです。今の時代ではネットの世界を含めることもありますが、やはり新聞、雑誌、新書あたりで用例が拾えるようになれば広まっていると考えています。
――今ブログなども出版物と同様の扱いをされることもあり、書き文字のように重視されてきているので、ネットも基準に入ってきますよね。
◆そうですね。例えばコーパスの中の「少納言」(検索対象にヤフー知恵袋やヤフーブログも含まれている)とかで用例を探すこともあります。
広辞苑は載せなかった「できちゃった婚」
――その言葉が一時的なもので終わるものかどうか検討を重ねないとということもありそうですね。
◇奈良林さん 広辞苑第6版が刊行された頃、新聞記者の方から「できちゃった婚」はなぜ載せなかったのかと質問されたことがあったそうです。広辞苑は載せないと判断しましたが、今になってみるとその言葉は見なくなってきました。入れなくて正解だったなと。揶揄(やゆ)する感じにも聞こえますし。
◆できちゃった婚があまり良い言い方ではないから「授かり婚」「おめでた婚」など当時でもいろいろな言い方が使われており、「言葉が定着してないよね」と見送ることにしました。入れるとすれば、何を省略したものかを知りたい人のために、むしろ「でき婚」の方が入れたくなります。
情報収集は「日常生活が勝負」
――「近場」(詳しくは前編)のように読者からの問い合わせがきっかけとなって次の改訂時に反映されるということは珍しいことではないのですか。
◆そうですね。最終的に取り入れるか入れないかは編者の先生との相談において決めますが。編集者は情報をためておいて、いざ改訂というときに引っ張り出して、これはどうしようか、あれはどうしようかと検討します。
――情報を得るためにどのようにアンテナを張っているんですか。
◆日常生活が勝負です。電車に乗っていても歩いていても。「この人こんなこと言っている」と。「それどういう意味」と思わず聞き返したくなるときがあります。
「あ、こういう使い方するのか」ということは一度ためておいて、ほかの人が同じような使い方をしたときに「これは変わっていっているのかな」と考えますね。
岩国の「〜は誤用」「○年ごろから」
――岩国では「〜は誤用」とはっきり書いてあるところがありますが、これは方針として決まりがあるのですか。
◆決まりというか、これまでは(前の編者の)水谷静夫先生が「誤用」と認めたら「誤用」と書いていました。一応編者の先生の方針で。なので、今回は多少和らいだ(笑い)ところもあるかもしれません。今まで通りのところもあるかもしれませんが。
――岩国では「○年ごろから使われだした」という記述を見かけますが、何を根拠にしたものなのですか。
◆編者の先生の調査でその都度用例を取っています。例えば「お茶する」には1980年ごろから使われだしたと書いてありますが、先生が用例を取ったのがその頃だったということです。今回も柏野和佳子先生(国立国語研究所准教授)が「○年ごろから」という説明をいくつか書いてくれました。
“校正部隊”は外部のプロと混成で
――岩国の校正、校閲はどのようにやっているのでしょうか。
◆校正期間は「外校正」といって、社員ではないですが岩波書店で校正をお願いしている校正者に常駐して手伝ってもらいます。以前は内部社員だけで校正していましたが、今は社員の数が少なくなって外の方の力を借りないと校正期間は手が足りません。
――校正部門、部署はないんですか。
◆ありますが昔のようにたくさんいるわけではないので、今は外のプロの校正者の手を借りるというのがほとんどですね。
辞書の場合には何カ月と校正期間が続くので外校正の人に社員と同じように9時から5時という形で社内の席で校正してもらいます。
◇他社の人に話を聞くと、企画によっては社員の仕事はライター・校正者・編集プロダクションなどとのやり取りや、進行管理が中心になっている場合もあるようです。うちの場合は校正期間の前に内容を固めていくところは社員が中心でやっていき、最後の校正の時期にスタッフが増えていきます。
私も校正部隊の一員として外部の方と同じような仕事をしています。何度も同じ作業が繰り返されますが、初校では「さ」のゲラの校正を担当したから再校では「す」のゲラを担当する、という具合に目を変えて読んでいます。
いつまでも終わらない「し」
――岩国と広辞苑では校正・校閲のやり方は変わりますか。
◆基本は一緒です。編集が終わったら、新しい項目と既存項目を50音順に並べてそれを分担してやります。広辞苑は量が多いので1日数ページのノルマですが、岩国だと50音の中の1音の束を取ってやっていきます。薄いところならいいですが「し」などに当たるといつまでたっても終わらないのでうんざりします。
◇「し」は「しゃ、しゅ、しょ」で始まる言葉や、「漢字母項目」(例えば「士」や「抄」のようにたくさんの単語と結びついて熟語をつくる漢字について、意味や用法を解説する項目)が多いので、本当に大変ですよね。
ルールが厳しい広辞苑は校正も大変
◆比べ方は悪いですが岩国は心穏やかに校正ができます。広辞苑は、期間は3カ月と分かっていても毎日毎日つらい。朝は割と元気でいろいろなことが気になります。しかし読んでいくうちに「もういいかな」という気分になってしまうことがあります。あってはいけないのですが……。
また広辞苑の方が版面のルールが厳しいということもあります。見出しがちょっと長いと行末でひっかかったり妙に空いたりします。化学式を入れなければならない項目もあって、それが行末にかかると、行をかえた方がいいのかとか。そういうときに限って図版が入っていると「これを動かすの」と……。
◇無駄な白い部分はできるだけ作らないのが広辞苑です。だから、例えば「ハープ」という項目なら、三角形に近い図版の形に合わせて、解説の文字が、8字の行、次が6字の行、というように不規則に並んでいくんですね。そのうえ、項目によっては原語を行末で分綴(ぶんてつ)がおかしくならないように入れていく気づかいがあるので、厳しいなと思います。
◆そもそも「ギリシャ語の分綴はここでいいの?」とか。そういう意味では岩国は図版がないので気は楽ですね。
岩国の第3版で誤植が多かった理由
――昔の話ですが、岩国の第3版では誤植が多く、正誤表を出したという話を聞きました。校閲記者としては気になるのですが、どういう事情があったかなど、聞いたことはありますか。
◆3版は1979年に出たのですが、そのとき初めて岩波書店はコンピューター組み版というものに挑戦しました。当時のコンピューター組み版は画面がなく、オペレーターの人が自分で差し替えたものがどうなっているかを見ることができなかったそうです。漢字もコードか何かで入れていた時代で画面を見ながら変えるということではない最初の組み版だったらしいです。そのためにすごく誤植が多かったという話です。
印刷所の人が原稿と引き合わせてくれる「内校」もたぶんやったはずだし、こちらでも校正はあのころは人数かけてやっていたはずだけれども、それでも結構(誤植が)出たということは、どういう状態だったのだろうと……想像できない。昔語りとして聞いただけですが、そういう目には遭いたくないと思いました。
広辞苑は「ウィ」だが岩国は「ウイ」
◇毎日新聞社さんでは「ウインタースポーツ」の「イ」は小さくされませんよね?
――弊紙は大きい「イ」です。保守的で。
◇うちもです。ただし、日本語により古い時代から定着した「ウエーブ」などは「エ」ですが、「ウェブ」のように新しいものは「ェ」に。さすがに「メーンディッシュ」のときの「メーン」は今回「メイン」にしました。
◆デイケア、デイサービスは「デイ」なんですけど、そのほかの「デー」は「デー」です。「虫歯予防デー」など。
――それも同じです。
◆デイケアなどは、最初から「イ」で日本に入ってきていたのかなと。
――昔からある外来語でなくてというところですよね。
◆ほかの編集部の人からよく言われるのが「セクシャル」。「セクシュアルと書け」とよく言われますが、「とんでもない」と。あれは「セクシャル」で入ってきたのだからいいんだと言ってます。「セクシュアルというのは英語だよ」と。
――弊紙は「セクシュアル」なんですが、「英語」と「外来語として日本語になっている語」の違いですよね。
◆毎回悩むのが「イ」を小さくするかどうか。
――広辞苑はかなり徹底して小さくしていますね。
文学や言葉と「運命的に出合うチャンスを」
――話は変わりますが、学習指導要領が改定されると「文学国語」と「論理国語」の選択制になって、受験のために論理国語ばかり選択されることになるのではといわれています。岩国が高校の授業で使えるように作られているということと関係しますが、この先文学作品をあまり読まないで育った層が増えていくと「昔の言葉が載っていなくても困らない」と考える人が増えるかもしれません。辞書の作り方に影響は出るのでしょうか。
◇全ての人が文学に運命的に出合うチャンスを持てるようにすべきだと私は思います。どれが響いてくるのか、刺さってくるのかということは、分からないはずだから。山月記とか、森鷗外とか、話題になっていましたが、みんなが共通したものを読んだ経験があるからこそ、そのパロディーで笑い合えたりすることもあるでしょう。
読書をせず、インターネットで自分に関心のある記事だけ読んでいると、住んでいる世界は狭くなります。紙の新聞ならたまたま目に入るということもありますが、スマホは自分の関心に沿ったテーマしか訴えかけてくれません。紙の新聞や、紙の辞書は、思いもしないところに目が行くこともあり、物体としての辞書を使っていろいろなことを経験してほしいです。文学も本当にどれが自分にとって大事なのか分からないので、直接役には立たないかもしれないけれども出合うチャンスはたくさんあった方がいいと思います。
――ありがとうございました。
(おわり)