病名の側ワン症のワンの字は「湾」「弯」「彎」の三つの表記がありますが、カルテや業界紙などではなく一般的な新聞で書く場合、どういう文字が適切でしょう。悩んだ後輩が詳しい先輩に聞くという設定の架空対話でお届けします。
後輩 すみません先輩、なんだか頭の中で妙な声が響いてくるんですが……。
先輩 大丈夫? どんな声?
後輩 「……ソクワンショウは間違いです……修正しなさい……」とか。
目次
湾と弯は別の字だが
先輩 ソクワンショウって病気の「側湾症」のことかな。
後輩 ああ、そうだと思います。この前「側湾症」と記事にあって、ネットで調べると「側弯症」となってて、直すべきなのかなと思ったんですけど、毎日新聞の過去記事でほとんど「側湾症」となっていて、そのままにしたんです。
先輩 すると、それが正しかったのだろうかという心の葛藤が幻の声となっているということなのかな。
後輩 もしくは、誰かが念を送っているとか……。
先輩 しっかりするのだ。では私が逆の念を送ってあげよう。あなたは間違っていない……側わん症の「わん」は「湾」で間違いではない……。
後輩 いや、口だけそんなふうに唱えられても。
先輩 確かに、病院のサイトや医療関係の事典では「脊柱(せきちゅう)側弯症」となっているね。ちなみに弯は略字で本来の字は彎。この二つは形は違うが同じ字で、いわゆる異体字の関係だね。でも湾は弯と読みは一緒だが別の字だ。
後輩 だから、間違いだという声が聞こえてくるんだ。
先輩 まあこれを見て。これは「成育医療等の提供に関する施策の総合的な推進に関する基本的な方針(令和5年3月22日閣議決定)概要」という文書の一部だけど……
後輩 あ、「側湾症等の早期発見」と書いてある。
先輩 そう、ただね、これはミスなのかもしれない。この概要の元になった閣議決定の文をみれば「側弯症」となっていたので。
国語審議会が「彎→湾」の書きかえ示す
後輩 やっぱり「側弯症」が正しいんじゃないですか。
先輩 でも、一般に向けた文章としてあえて分かりやすい字に変えたのかもしれない。実は国語審議会が出したこういう文書があるんだ。
「同音の漢字による書きかえ」について(報告)
国語審議会は,当用漢字の適用を円滑にするため,当用漢字表にない漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして,表中同音の別の漢字に書きかえることを審議し,その結果, 別紙「同音の漢字による書きかえ」を決定した。
後輩 当用漢字? この文書、いつ出たものですか。
先輩 1956年。まだ常用漢字の時代ではなかった。その中に、こんな部分がある。
【わ】
彎× → 湾 彎×曲 → 湾曲 彎×入 → 湾入
後輩 「彎」は「湾」に直すことになっていたのですね。でも「側湾」は例示されていないのですか。
先輩 その熟語としての用例はないけれど、前文に「1字のものは,左の字は右の字に書きかえてさしつかえないことを示す」とある。つまり「彎」を含む熟語は「彎曲」「彎入」だけでなく他のも「湾」に置き換えていいんだ。
広辞苑は「側弯」を不採用
後輩 えーいいのかな。「湾」の他にはどんな漢字があります?
先輩 例えば「蹈→踏」。挙げられている熟語は「蹈襲→踏襲」だけだけど、「舞踏」とか「踏破」とかあらゆる熟語は「踏」の字に整理されたといえるのではないかな。
後輩 「蹈」って「踏」の旧字体じゃないんだ。
先輩 うん、読みが同じだけで別の字。意味もほとんど同じだけどね。だから統一されやすかったんだと思う。それから「廓→郭」。
後輩 遊郭の「郭」ですね?
先輩 そう来たか。確かに遊郭とか城郭とかに使われ、昔は「廓」と書いていたね。医学用語としては「胸郭」。これは「同音の漢字による書きかえ」の例にはないけれど、この字を含む熟語にも適用できるという原則が適用されたようだ。結果的にかもしれないけどね。
後輩 では「側湾」も……。
先輩 ところが医学用語では「脊柱側弯症」のままのようだ。ただこのホームページでは……。
後輩 あ、彎と弯が分かれている。学会名では難しい「彎」なんですね。
先輩 そう。使い分けてまで学会は難しい字を固持しているんだ。ましてや全く違う字である「湾」に病名を変えるとなると学会の合意を得るハードルは相当高いのかもね。
後輩 確かに湾は何々湾とかのイメージがありますからね、
先輩 イメージといえばそれだけとは限らないよ。「常用漢字コアイメージ辞典」(加納喜光著)によると「灣」は水辺が半円形に曲がった地形を連想させるとある。弓なりに曲がるというイメージは共通している。でも、国語審議会が出したのは相当前で、病名を変えるほどの力はないと関係者は思っているのかもしれない。しかも国語審議会の「報告」であり「答申」ではない。「広く社会に用いられることを希望した」ということで強制力はないしね。
後輩 とすると、やはり……あ、また「修正しなさい」とかいう声が聞こえてきそうだ。
先輩 しかし、「彎」なり「弯」は一般の人に読めるだろうか。多くの人にとって見たこともない字じゃないかな。
後輩 私も初めて見ました。
先輩 「そくわん」を載せる辞書は大体がデジタル大辞泉など「脊柱側湾症/脊柱側彎症」と併記していて、広辞苑では「脊柱後湾」「脊柱側湾」のみ掲げて「側弯」「側彎」とも書くという追記さえしていない。
後輩 おおっ、広辞苑が! これは強い味方ですね。
先輩 専門用語はその道の専門家が書いていると思うけど、これは一般向けの国語辞典だから表記は分かりやすく、国語政策に沿ったものにしたんだろうね。病名は医者だけでなく患者にも共有されるものだからね。
医学界にも用語簡素化の意見
後輩 この病名に限らず、難しくて意味分かんない用語が多いですからね。
先輩 そういえば、2009年に「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」という文書が国立国語研究所から出たことがあった。側湾症はその中に入っていないけど、分かりにくい病院の言葉をやさしく表現する努力は医学会に求められている。
後輩 病名も聖域ではないということですね。
先輩 調べると、こういう意見もあるよ。「医学用語の標準化をめざして ―『日本医学会医学用語辞典(英和)』第3版の編集方針― 日本医学会医学用語管理委員会」という文書がpdfで見られる。引用すると
一般社会では「湾曲」が使われているが,医学においては「側弯」,「大弯」,など弯曲以外でも「弯」が多く使われる.したがって, この場合に限っては,一般社会の用語と異なる 「弯曲」を使用した.
同音の漢字による置き換えは,総画数の多い漢字を使うことが多い医学用語を将来簡素化するための有力な手段となる可能性がある.過去にも,包帯(縫帯),奇形(畸形),死体(屍体),回虫(蛔虫)など,医学用語は簡素化されてきた.今後も, 医学界は簡素化に努力し,新しい医学用語を世の中に提案してもいいのではないかと思う.
こういう意見が広がるといいね。
後輩 全くです。なんかすっきりしました。ありがとうございます。
先輩 では共に念を送ろうじゃないか。医学会よ……「側弯」を「側湾」に修正しなさい……修正するのです……。
後輩 だから効きませんって。
【岩佐義樹】