読めますか? テーマは〈謝罪〉です。
等閑
答え
なおざり
(正解率 51%)「とうかん」とも読む。いいかげんに考えて放置すること。JR北海道の線路などの異常がなおざりにされ、幹部が謝罪した。「なおざり」は「おざなり」(いいかげんな態度ですること)との区別が難しい。明鏡国語辞典では「○おざなりな謝罪 ×なおざりな謝罪」。
(2013年10月21日)
選択肢と回答割合
おざなり |
31% |
ないがしろ |
18% |
なおざり |
51% |
憾み
答え
うらみ
(正解率 24%)物足りなく思うこと。不祥事のときによく使われる言葉「遺憾の意」の憾で、遺憾は「物足りなさが残ること」。だから謝罪の会見で「遺憾です」と言うのはなんだか物足りなさが残るのである。新聞では「憾み」は「うらみ」として「恨み」とは使い分けている。
(2013年10月22日)
選択肢と回答割合
詫び入る
答え
わびいる
(正解率 93%)心から謝ること。漢和辞典によると「詫」をおわびの意味で使うのは日本的用法。もとは「大げさに言う」「驚きあやしむ」「だます」などの意だった。
(2013年10月23日)
選択肢と回答割合
まろびいる |
6% |
わびいる |
93% |
わびはいる |
1% |
忸怩
答え
じくじ
(正解率 87%)恥ずかしく思うこと。三省堂国語辞典は誤用とことわったうえで「もどかしく思うようす」という意味を加えている。田中俊一・原子力規制委員長は福島第1原発の現状について「じくじたる思い」と述べたが、どちらの意味だろうか。
(2013年10月24日)
選択肢と回答割合
慙愧に堪えない
答え
ざんきにたえない
(正解率 94%)自分の行為を心から恥じ入ること。慙は慚とも書くが、本来は同じ字。慙愧はもと仏教語で「ざんぎ」とも読んだ。三省堂国語辞典は「『残念に思うこと』の意で使うのは、あやまり」とする。また学研漢和大字典によると慙は「心にぐさりと切りこみを入れられた感じ」。安直に使わないでほしい。
(2013年10月25日)
選択肢と回答割合
かいこんにたえない |
3% |
きんかいにたえない |
4% |
ざんきにたえない |
94% |
◇結果とテーマの解説
(2013年11月03日)
この週は「謝罪」。最近も次々と不祥事が明るみに出て謝罪会見が行われています。人ごとではなく、毎日新聞でも「おわび」記事がしばしば掲載されます。自戒も含めて、このテーマにしました。
正解率は「慙愧に堪えない」が最も高くなりました。「忸怩」も難しいと思いきや、びっくりするほどの高率です。それだけ謝罪の言葉が世にあふれているということでしょう。
「忸怩」といえば、2000年毎日新聞掲載の校閲コラムで、本来の言葉や使い方から懸け離れた言葉が新聞に載ることに「忸怩たる思いで黙っていると」と記したのですが、読者から「残念だ・腹立たしい・くやしい、という意味で使ったようだが、本来は、心の中で恥ずかしく思う、という意味なのでは?」というご指摘がありました。これに対し筆者は「私は本来の意味で使ったつもりです。自分が声を上げなかったために間違った言葉が紙面に載ってしまえば、それは校閲記者にとっては恥ずかしいこと」と釈明しました。ことほどさように「忸怩」というのは使う側と受け取る側の認識がずれることがあります。できるだけ「恥ずかしい」という本来の意味が生きる場面で用いた方がよいと思います。
「詫び入る」。以前チェックした原稿で、ある文芸誌が「お侘び」を出したという記述がありました。「お詫び」の間違いでしょうと思いつつ辞書をみると、「詫びる」は「侘びる」と同源となっています。ということは「お侘び」もありなのか? 当の文芸誌に当たると「お詫び」となっていましたので単なる間違いでした。また、出題時にも書きましたが、「詫」をおわびの意味で用いるのは日本的用法で、元は「だます」などの意味もあったとのこと。ということは、中国人にはこの字はおわびのしるしとして受け取ってもらえないということなのでしょうか。いずれにせよ、毎日新聞では「おわび」と平仮名にしています。
「憾み」が今回最も低い正解率でした。ところで「遺憾」という言葉は幹部の言葉でよく使われますが、これもどういう意味なのかという疑問の声は多いようです。「うらみをのこすこと」と読み下すと相当印象が変わりますね。それにしてもよく分かりませんが。
北原保雄編著「問題な日本語その4」(大修館書店)には「遺憾」は謝罪の言葉なのかという質問に答える項があります。《こうした言い方が、なぜ何か問題を起こしたときの関係者の謝罪会見などでよく使われるのでしょうか》《当事者の立場にあったとしても、直接「申し訳ございません」「心からおわび申し上げます」といった謝罪のことばを使わずに、第三者的に責任逃れの立場を通せるからではないでしょうか》《「遺憾」「慙愧」といった難しい漢語を用いると、物事に関していかにも真摯(しんし)に対応しているように見せかける効果はあるものの、自分側の責任を明確にして心から謝罪すべき場面では、受け手側ははぐらかされた気持ちになってしまいます》
誠にその通りなのですが、では殊更に難しい漢語を使わずにおわびすればそれでいいのか。そういうものでもないでしょう。再発を防ぐためにどうすれないいのかということこそ真剣に問われねばならないし、不祥事を起こした側は、いますぐ必ず実行する再発防止策として、答えなければならないはずです。その姿勢がないと、なおざりな謝罪、いや、おざなりな謝罪とみなさざるを得ません。