先日、「努力はきっと実になり、人生の役に立つ」という一文に出合い、ここでふさわしいのは「身」と「実」のどちらなのかとしばらく悩みました。
努力の末に学問や知識が自分のものになる、ためになるという比喩的な表現では「身になる」ですが、それでは後続の「役に立つ」と意味が少し重なるのが気になります。
「実になる」という表現は「花が実になる」経過の隠喩(努力自体が中身のあるものになる)と考えることもできますし、努力が結実する(よい結果が出る、成功する)意味を前面に出すならば慣用表現の「実を結び」としたほうがいいのでしょうか。しかしそうすると前後のつながりが薄まるような……。身と実では意味が重なるところもあるようで、迷います。
毎日新聞の用語集は、「身」と「実」の使い分けについて、幾つかの例を挙げています。
毎日新聞用語集
例えば「みが入る」なら、真剣になるという意味の場合は「身が入る」(「練習に身が入る」など)、内容ができるという意味の場合は「実が入る」(「実が入った稲穂」など)と使い分けることになっています。
過去の記事を見てみると、競馬のコラムで「馬体に実が入る」と比喩的に使われている例がありました。競馬関係では馬の身体的な充実ぶりに対し、このような表現があるようです。また地域によっては、人の成長や、筋肉痛を指す方言として「実が入る」が使われているそうです。
興に乗って話す、話に熱中するという意味の慣用表現「話に実が入る」は、のめりこむイメージで「身」としてしまいそうになりますが、「(昔話に)花が咲く」の仲間と解釈してしまえば「実」であることに納得はできます。
ただ、話すことに一生懸命になる、と言いたいときは「話に身が入る」という表現もありなのかもしれません。困ったことに日本国語大辞典(第2版)には「実が入る」の語釈に「『身が入る』(気が乗って一心になる。一所懸命になる。熱中する)に同じ」と併記されているため、「身が入る」の意味で「実が入る」と書いても、これを根拠にしてしまえば正しいということになりそうです。
ともに日本国語大辞典(精選版)
明確な書き分けでいえば、「ミのある議論」の例が挙げられます。内容が充実しているという時に使う「ミ」は、中身という意味に引きずられてしまいそうになりますが「実」の字を使います。「実り」という言葉を「実りある」と使うことから考えても、これは分かりやすいのではないでしょうか。
冒頭の一文は結局、文章全体の流れから「身になる」としました。書き手の意図に近い表現を模索することも校閲の難しさの一つであると日々痛感しています。今回のようなあまり実のない話でも、読者のどなたかの身になれば幸いです。
【谷井美月】