ロンドン五輪の熱狂を思い出してみよう。「4年前に負けてから、いろいろな罵倒も浴びて……オリンピックという畳の上で試合ができた」。日本人第1号のメダル(銀)を獲得した柔道男子60㌔級の平岡拓晃の喜びの言葉だ。気になったのは「罵倒」。辞書には「ののしること。また、その言葉」(大辞林)の語釈もあるが、「ひどく悪く言うこと」(広辞苑)▽「悪口を相手に浴びせかけること」(新明解)など動作を表す意味で使う場合が一般的。だから、「(いろいろと)罵倒されて」「罵声も浴びて」だったら、ストンと胸に落ちたはずだ。
このように、スポーツ選手の談話や政治家の演説など、著名人の公の場での発言の引用文に校閲担当者は苦しむことがある。会話文以外なら出稿元と折衝の余地もあるが、事実関係の間違いでない限り「本人が言っているから」と、大抵は一蹴される。中でも、本来の意味・用法とは違う「誤用」が一般化し、市民権を得たものは、なおのこと難しい。
今年5月の毎日新聞運動面。プロ野球・西武の38歳ベテラン、石井が5年ぶりに挙げた完封勝利を報じたが、「石井は『老体にむち打ちました』と笑った」という原稿が出てきた。成句としては「老骨にむち打つ」が正解、と指摘したが、「違和感がなく、実際によく使われている」との理由で、そのまま掲載された。確かに「ご老体」はよく耳にする言葉だけれど……。
関西の新聞・テレビの校閲担当者の会合でも今年5月、この「会話の誤用」問題がテーマになった。正しい表現に直すか否かが問われた例として、「あいにくの雨模様だったので(傘を差して歩いた)」「フレンチ・レストランは敷居が高いという方もいらっしゃるが」――などが挙げられた。ちなみに、広辞苑によると、雨模様は「雨の降りそうな空の様子」▽敷居が高いは「不義理または面目ないことなどがあって、その人の家に行きにくい」が本来の意味だが、各社の意見は割れた。誤用とはいえ「肉声」は日々移ろいゆく言葉を体現している、という声もあったが、正しい日本語を世に送り出す責任の重さと併せ考えると、悩ましい。
【立石信夫】