「已己巳己」という四字熟語をご存じでしょうか。よく似た字ということから、そっくりということを表しますが、実際に使用例を見たことがありませんでした。が、最近立て続けに遭遇。その一つは大河ドラマの主人公、蔦屋重三郎がからむ本でした。
「已己巳己」という四字熟語があります。「いこみき」と読み、似ているものの例えとされています。
しかし校閲として「已」「己」「巳」が似て非なる字ということは知っていても、実際この四字熟語が「そっくり」の比喩として使われる場面を見たことがありませんでした――今年の正月までは。
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水族館の企画展示で遭遇
2025年の正月、厳島神社への初詣の後で宮島水族館に立ち寄りました。企画展として「已己巳己」という漢字がどーんとポスターになっています。
おお、こんなところで「已己巳己」の字にあえるとは。「へ~!ビっくり」というダジャレとの下には「互いに似ているものの例え」という意味の説明まできちんと印刷されています。
企画展では例えばこんなものが展示されています。
エイリアンのようなエイ……これも一種の「そっくり」というしゃれでしょうか。と思いきや、「サカタザメ」というサメの一種だそうです。
エイといえば、宮島水族館ではこんなかわいらしいエイもひらひらと愛嬌(あいきょう)をふりまいていました。
已、己、巳はどう違う
さて、説明不要かもしれませんが、漢字の解説をしておきます。
初めの「已」は左上の線が上につかず中途半端な空きがポイント。文法の「已然形」の「已」で使われているので覚えた人も多いでしょう。「己」とも「巳」とも違う字で、訓読みは「やむ」。「やむを得ず」はいま平仮名で主に書かれますが漢字だと「已むを得ず」です。「倒れて後已む」などの慣用句で出てくることもあります。
次の「己」は自己の「コ」、訓の「おのれ」ともによく使われています。四つ目の漢字も同じですが、読み方は「キ」。「知己を得る」「克己心」の「己」で知られます。また、十二支ではなく十干の方の「己」(つちのと)にも使われます
第3の「巳」こそ、今年のえとですね。訓は「み」ですが、音読みは「シ」です。ちなみに3月3日のひな祭りは「上巳(じょうし)の節句」ともいいますが、「じょうみ」とも読むとされています。
気を付けるべきなのは、人名では「己」で「み」と読む例が少なくないことです。プロ野球楽天の辰己涼介さん、冒険家で故人の植村直己あたりが有名です。
「己」は当用漢字なので別として、戦後の制限による子供の名前に使える漢字としては、「巳」は1951年に、「已」は2004年に人名用漢字に入りました。だから例えば50歳代の人の下の名に已然形の「已」が付いていたら「この『已』は出生当時認められなかったから『己』か『巳』の誤りでは」という指摘ができるのですが、「已」も認められてしまったので若い人などは難しいことになってしまいました。
この三つの覚え方は昔から歌のような文言で伝えられています。
巳(み)は上に、已(すでに)已(やむ)已(のみ)中ほどに、己(おのれ)己(つちのと)下につく
あるいは
己(き)己(こ)の声、己(おのれ)己(つちのと)下につき、已(い)已(すでに)なかば、巳(し)巳(み)はみなつく
など、いろいろなバリエーションがあるようです。
こんなところで「べらぼう」蔦重の名が!
ところで、「已己巳己」という四字熟語の使用例を他にも偶然見つけました。
ちくま学芸文庫「江戸の戯作絵本2」収載の山東京伝作・画「地獄一面 照子浄頗梨(かがみのじょうはり)」。1790(寛政2)年刊、「蔦屋重三郎版」とあります。おおっ、こんなところにも大河ドラマ「べらぼう」で話題の名が!
この本は平安時代の実在の人物、小野篁(おののたかむら)の地獄巡りを通して当時の世相を風刺したものとのことです。その最後に彼が一首詠んだというのが、この絵で示されています。
おや、最初の字が「已」じゃないぞ、と気づかれた方は鋭い。文庫の解説にこうあります。
本来は「已己巳己」と並ぶべきなのだが、誤読は『歌字尽』刊行の初期の頃からあった。以下の歌、『歌字尽』では、〈すでにかみ、おのれはしもにつきにけり、みははなれ、つちはみにつく〉。
そして山東京伝の「巳己已巳」の歌は
すでに上ミ、おのれは下モにゆたかなり、身はみななおり、つちで庭はく
とあります。この「身」は「巳」と掛け、「みななおり」は「元の身分に復帰して」との意味と文庫で解説されています。つまり字の順番は間違いではなく、この歌に合わせたのでしょう。
已の字の空き具合は、ちょっと変なような。ただ、これも間違いというより、昔から已の字はさまざまに書かれていたようです。諸橋轍次「十二支物語」によると「一説には巳(シ)と已(イ)は小篆からみても同一字という考え方もあるようです」。
そうなると、現在私たちが必死で使い分けをしているのもむなしくなってきますが、いやいや、大昔の一説は軽く聞き流しましょう。今は手書き中心ではなく電子的な文字コードの時代ですので、正しい読みさえ入力すれば間違えないはずです。
立候補者に「鈴木克已」と「鈴木克己」
しかし、人名に関しては一般的な「正しい読み」が通用しないことが少なくありません。前述の「植村直己」をはじめ、「機動戦士ガンダムSEED」などで知られるアニメ監督、福田己津央さんも「みつお」と読みます。
2019年の千葉県勝浦市議選に現職の「鈴木克已」と新人の「鈴木克己」という2人の「かつみ」の候補者がいたことが話題になりました。現職の方は「已」が戸籍名と報じられていましたが、普段の活動では「己」を使っているそうです(ホームページや選挙ポスターでは「鈴木かつみ」。X〈ツイッター〉の写真下には「鈴木克己」とあります)。市選管などはそれぞれの住所を付けて投票するよう呼びかけたとのこと。まさしく「巳己已巳」の例ですね。
さて、今年の5月26日の改正戸籍法施行から、それ以降生まれる子供の名前で、漢字と全く関係ない読み方は不可になる可能性が出てきました。では「己」に「み」と当てるようなことは不許可になるのでしょうか。いや、例えば新漢語林2版の「己」の「名前」欄には「おと・き・これ・つち・な・み」とあり、本来漢字の読みとしてはないはずの「み」も挙げられています。これまで通り「己」に「み」の子供は生まれていくでしょう。
戸籍に名前の読み…已はどうなる
しかし「已」はどうでしょう。同辞典の「已」の「名前」欄には「い・おわる・これ・すえ・のみ・はや・もち・やむ」が挙げられていますが「み」はありません。では「克已(かつみ)」の読みは認められなくなるのでしょうか。
おそらくそうはならないでしょう。「み」そのものはなくても「のみ」の一部としての「み」がある……などの理由で認められるのではないでしょうか。
「巳己已巳」など江戸時代から続く混乱を修正するのには相当な強制力が必要と思います。それはそれで反発を呼ぶことは必至で、私としては「已(やめる)なんて中途半端な文字を子供に与えるのは親はやめにして・周囲はやめさせてほしい」と祈るのが精いっぱいです。
蛇足ですが、「江戸の戯作絵本2」収載の別の黄表紙「心学早染草(しんがくはやそめくさ)」は、「善玉」「悪玉」の語源になった本です。人の心の善と悪を文字が書かれた玉によって描かれています。下の絵は同書から「悪魂、善き魂を斬り殺し」の場面です。
身に覚えがないこともないような。こうならないよう、自分の中の悪心に負けない強い克己心を保ちたいですね。
【岩佐義樹】